邯鄲の夢 邯鄲の夢−2


「旦那さま」

廉頗を呼ぶ声は、藺相如のものではない。
己を呼ぶ声に誘われるままに意識を取り戻す。
眩しい。
一瞬あまりの眩しさに目がくらんだ。
木々の間からこぼれる木漏れ日が、燦々と、年老いた廉頗の顔に降り注いでいる。
顔を覗きこむ様な形で側に座っているのは、廉頗の屋敷の使用人の男であった。

「旦那さま、こんな所で寝ると身体に毒でございますよ」

「ここは……」

まだ頭はぼんやりとしている。
しかし、周りがつい先程まで見ていた風景とまるで異っているのは、廉頗にも理解できた。

「どこって、旦那さまのお屋敷の庭じゃないですか」

「地名……ここの、地名は」

「はぁ?寝ぼけてるんですか?ここは寿春でしょう」

「寿、春……」

楚の地名である。
廉頗はゆっくりと身体を起こす。
背中を中心に身体がギスギスと痛んだ。
痛い背中を庇いながら周りを見渡す。
庭だ。
男のいう通り、庭である。
廉頗も見知った、己が屋敷の庭に違いない。
廉頗はどうやら庭の隅の木の下で眠りこんでいたらしい。
身体が痛むのも、変な所で眠ってしまったからのようだ。
段々と意識がはっきりとしてくる。

「儂は……」

「本を読んだまま眠ってしまったようですよ」

男が示した指の先には、確かに本が置いてある。
六韜。
確かに自分はこれを読んでいた……そう、廉頗は思い出した。
麗らかな陽気に当てられ、眠くなった事も次第に思い出した。
廉頗は本を読んでいる途中で眠気に負けて、眠りに落ちたのだった。

だとすれば……。

廉頗は頸をかしげる。
あれは夢だったのだろうか。
枕元に藺相如が立っていた事。
いや、そもそも夜、床の中で寝ていた事。
その時点で夢だったという事なのか。

―夢の夢を見ていた。

「旦那さまもいい年なんですから無茶しないで下さいよ……」

その後も何やらぶつぶつと文句の様な事を言いながら、使用人の男は去っていった。
しかし、廉頗にはその声は届いてはいない。
廉頗は未だ、夢の内容を反芻していた。
暗闇の中で聞いた藺相如の声。
確かにあれは懐かしい藺相如の声であった。
夢とは思えないほど、今も鮮明に耳に残っている。

「邯鄲へ連れていってくれるのではなかったのか」

廉頗が問う。
しかし、返ってくる答えは無い。
静かな庭の中、サワサワと風に揺れる草木の音以外で、音をなす者はいない。
風の音が一層、静寂を色濃くする。
見慣れた庭が、いつもより広く見えた。
庭には廉頗しかいない。

「……昔からそうだ、お前は。口先ばかりの男なのだ……」

やはり、応える者はいない。






この小説のテーマは勿論、「刎頸の交わり」と「邯鄲の夢」です。
両方の故事の内容を知っているという前提で書いております。
廉頗の晩年が非常に可哀想、って聞いていつか書きたいなぁと思っていた内容になってます。
可哀想だと聞いて、更に可哀想な結末にしてしまいましたが…。
あと、廉頗の口調にひどく悩みました。
一人称を俺にしようか儂にしようかとか。
藺相如と年齢差を感じさせる様に結局儂にしました。

廉頗が読んでいた「六韜」は太公望が著したという兵法書です。
廉頗自身は未だに現役のつもりなので…。

晩年の廉頗はきっと藺相如に殺されていたなら救われていたな…とか思っていそうですよね。
しかし「貴方になら頸を刎ねられても良い」という関係って本当に良いです、ハァハァw

ちなみに、私は趙括も大好きです。



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