畜狼談 畜狼談−1


夜の街に狼が出るという噂がまことしやかに流れ始めたのは、そろそろ朝晩が冷え込み始める晩秋の事であった。
街と言っても洛陽という天下の大都会の話である。
城は日暮れに門を閉ざし外との往来を遮断するものの、暗くなっても街全体が眠りにつくわけではない。
要するに、狼などが出るという事は考えられないのだ。
しかも、天下の京師、洛陽に。
それは洛陽の評判を貶める恐れすらはらんだ噂であった。
故に、曹丕はその噂を側近の陳羣から聞いた時、まず耳を疑った。

「狼だと?その様な事があるものか。この京師に、その様なケダモノが?」

自分が悪いわけでは無いのに非難された陳羣は、困ったように肩を竦めた。
部屋には呉質や司馬懿といった、他の側近達も控えてはいたが発言はせずに静かに二人のやりとりを聞いている。

「私も不埒な噂だと思い出所を探そうと思ったのですが……、どうやら実際に被害者が出ているようです」

「被害者?狼に食われたとでも言うのか」

「食われた者もあれば、ただ噛まれた者もありといった状況です」

「狼の姿を実際に見た者は」

「サッと横切る影を、と言った程度です。教われた者は、皆死んでおります故」

曹丕はふんと、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
こういう時は穏便に済ませるに限ると、側近達は密かに思っている。

「ならばいっそ退治するしかあるまい」

「え?」

ここで初めて、呉質が声を出した。
陳羣も同時に同じ反応をしたので、面白いように二人の声は重なった。
司馬懿だけは、相変わらず聞いているのかいないのか、感情の読めない表情のまま黙っている。
こう見えて実は思う以上に良く話を聞いて、理解しているというのは曹丕も長年の付き合いで分かっているため、今更叱責するでもない。

「その様な噂、我等の沽券にも関わろう。根本から処置してしまうが良い」

「では、狼退治に兵を出しますか」

陳羣が少し、動揺気味に言う。
曹丕はどうしてか思ったよりも不機嫌で、ハラハラする。

「早速今宵から出すが良い。……そうだな、私直々指揮をしてやる」

再びえっ、と陳羣と呉質の声が重なる。

「気に食わぬその畜生は、私が捕らえてやるというのだ」

はぁ、と伏し目がちに返した陳羣は、ならば準備を致しますと続けた。
司馬懿は結局最後まで何も話さなかった。



天下の都たる洛陽は、日が暮れ夜が更けても完全に灯りが消えるわけではない。
中央通りならば手元に灯りがなくともなんとか歩ける程度の灯りは常にあった。
しかし今宵はそんな常日頃の落ち着いた明るささえ忘れそうなほどの灯りが、炎が、街を照らしていた。
大通りに焚かれた松明が、道々に灯された炎が、夜の闇を拒むかの様に燃えている。
そしていつも無いほどに夜の街は活気に満ちていた。
鎧を着、武器を手に持った彼等は勿論街の住人ではなく、軍の兵士。
常時王宮を警備する近衛兵達が今夜は、多く駆り出されていた。

「公子、兵は皆配置に付き監視を行っていますが今の所目撃情報は無い様です」

将の一人が、松明の側に佇む曹丕へと駆け寄って報告した。

「そうか……分かった。もっと火を強めよ。怪しげな影があればすぐに分かるようにな」

将は御意、と一言言い残し、元来た方向へ再び走り去った。
その後ろ姿を武装した曹丕は、ふんと満足そうに笑って見送った。
曹丕は、闇夜の中でも目立つ白い戦袍と作りの良い甲冑に身を包んでいる。
一方で側に立つ司馬懿は焦げ茶というべきか、むしろ闇に溶けていきそうな出で立ちだった。
それに更に簡単な甲冑を着込み、曹丕と並ぶとまさに影の様である。
陳羣や呉質は宮殿の警備を任してきた。
司馬懿だけが曹丕についてきたのは、多少なりとも従軍の経験があるからだ。
いくら賢くても、冷静でも、従軍経験の無い者はこういう場ではただの足手まといだ……というのが曹丕の持論だった。
曹丕は公子とはいえ、親征好きの父の影響で年端もいかない頃から戦地を経験している。
己が何の力にもなれず、戦地で兄を亡くした事もある。
戦の上手い下手ではなく、慣れない者は浮き足立つのだ。
曹丕はチラリと横目で後ろに立つ司馬懿に目をやるが、流石に落ち着いた様子で佇んでいる。
もっとも、この男の場合何時なんどきでもこんな調子な気もするのだが。

「仲達、行くぞ」

曹丕はぶっきらぼうに、無口に立ち尽くしている己の従僕に言った。

「どちらへ行かれます?」

「黙ってついて来い」

司馬懿に返事を与える暇も無く、曹丕は火から離れ、暗闇の方へと進んでいく。
兵は一定感覚毎に配置させているが、それでも誰もいない区域は出てくる。
また今夜は住民に夜半に家を出るなと予め通告してあったため、人気の無い場所は本当に動く影すらない程の静寂だ。
兵達の奏でる喧騒も遠く、焚かれた篝火の光も届かない。
司馬懿が左手にもった小さな松明だけが辺りを朧気に照らし出す。

「殿下、この様に暗い場所は危のうございますぞ」

ちらちらと揺れる松明の火が、艶やかな曹丕の甲冑の輪郭を映し出す。
曹丕が臣下の発言を無視する事はよくあるが、流石にこの状況ではそうも言ってられまい。

「殿下、火の近くへ戻りましょう。獣は火を恐れます故、火の傍ならば安全でございます」

「そんな事分かっておるわ。だから故にこうして道を外れておるのではないか」

急に足を止めて、曹丕はくるりと司馬懿の方を振り返った。
白い戦袍が大袈裟にはためく。
二人のいる道は暗く、松明の灯りでさえ闇に飲み込まれそうなほど。
白い戦袍だけが、奇妙に浮かび上がって曹丕の輪郭をなぞる。

「あれだけ火を焚けば、狼は火を避けて暗がりへ移動するだろう。人がいなければなおさらだ」

曹丕が腰に差した剣を抜き放ち、一瞬、刀身が松明の光を受けて輝いた。

「では、殿下――もしやご自身で?」

「言わずもがな。腹立たしい畜生はこの私が直々に撃ち取ってくれる」

吐き捨てるように言い放った言葉は、苛立たしさと共にどこか憐れむ風でもあった。

「殿下ご自身がされる事ではありません」

「黙れ仲達。私はこの手でたたっ斬ってやりたいのだ」

「危険でございましょう」

「うるさい、私は狼が嫌いなのだ。どうしても切り捨ててやりたい」

嫌い?明らかに司馬懿をポカンとした表情を見せた。
曹丕は呆けた様子の司馬懿を無視して、更に暗い方へと進みだした。
狼は嫌いなのだ――。
誰にも、司馬懿にも聞かせるわけではなく、空を切って歩く曹丕はそう繰り返した。





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