畜狼談 畜狼談−2


あれは何歳の頃だっただろうか。
とうに元服はしていたが、今よりはずっとずっと背丈の小さな頃。
父曹操は息子達を連れて狩りにいった事があり、曹丕も勿論それについていった。
狩りとはいってもまだ弟達は幼い。
馬に乗って動物を追いかけ回す程度の行楽だった。
しかし、曹丕はその程度に満足出来る年齢では無く、少ない供回りを連れて、家族達とは離れ、森の奥へ進んだ。
良く晴れてそよ風の吹く、気持ちの良い日であったと記憶している。
これから何かあろうとは予想だにもしない、そんな陽気だったのだ。
そんな天気につい気が緩んだのだと、後になっては言えるかもしれないが、ともかく曹丕はためらいもせずにドンドンと奥へ進んだ。
森は木々が複雑に生い茂っているため馬を操るのは難しく、自然と隊列はバラけていったが、曹丕は若くして弓馬に長けていたため、常に隊列の先頭をいった。

「まったく、まるで獲物がいない」

家族から離れ、浮かれる気持ちで森へ入ったは良いが、どうにも獲物となる獣がいない。
父はもしや獣があまり出ないのを承知の上でこの場所を狩り場に選んだのではないか――そんな考えさえ脳裏を掠めた。
子供達と遊ぶのが目的ならば、それくらいの方が危険が無くて良い……そういう理由でだ。
そんな時一瞬サッと黒い影が横切る気配がして急いで弓をつがえても、勘違いかただ風が過ぎただけなのか、そこに何の姿も無い。
気のせいだったかと、曹丕は不機嫌に弓を下ろした。

「仕方がない、戻るとするか。全員に伝えよ、ただいまより帰還する」

黒い影の気配は消えた。
曹丕は振り替えって、己の後ろについてきている兵士たちに言った。
言った……つもりだったのだが、自分の後ろには思ったよりも兵士の数は少なかった。
その数三、四人。
元々共に森へ入った時は十人以上はいた筈だ。

「他の者はどうした」

「脱落したようでございます。道を戻れば合流出来ると思います」

「それもそうだな」と答え、一行は来た道を戻り始めた。
しかし、間違いなく来た道を戻った筈なのに、はぐれた兵士の姿は無い。
勿論、合流できた者はいたのだが2、3人足りないのだ。
結局森を抜けるまで全員は集まらなかった。

「私は家族の元に戻る。何人かは森で迷ってる者を探してから部隊へ戻れ」

そう言って曹丕は家族の元に戻り、森での出来事を忘れた。


「狼は危険な畜生だ。そんなものが都を我が物顔で生きているなど許されざる事だ」

狼は恐ろしい。
牙、爪、獰猛な性質。
その全てが恐ろしいが、奴の恐ろしい所は何よりもそれらの凶暴な顔を押し隠せる所にある。
あの日、はぐれた兵士達は帰って来なかった。
遺体が発見されたと、そう報告されただけである。
その報告を聞くまで正直曹丕はその一件の事などすっかり忘れていた。
忘れてしまうくらい、なんでもない出来事だったのだ。
しかしそんな呑気に受け取っていたのは曹丕……いや、曹丕だけではなくその場の全員で、皆が皆自分達の少し視界から逸れた所で残虐な殺戮が行われていたなどと露にも思わなかったのである。

「殿下、どうかお考え直しになられませ」

なおも、司馬懿はすがる様に後を小走りでついて来る。
いつも感情の起伏が乏しい司馬懿の声にやや力が籠る。

「口答えするな」

「不躾ながら、何をそれほどまでにムキになられるのでございます?」

「なに?」

「私には、何やら殿下が狼に異常な執着を持っているように見えますが」

暗がりに溶け込むような闇の中で、ふと司馬懿の瞳が煌めいたように見えた。
いや、馬鹿な――唯一の光源たる司馬懿の松明の光を反射する位置にはない筈だ。

「良かろう、ならば教えてやろう。何故私が狼に執着するかを」

「殿下……」

「私はな、殺されかけた事がある。狼にだ。襲われたというわけではない。奴は私を狙わなかった。他のもっと獲りやすい人間を選んだだけだ」

いつも読みにくい司馬懿の表情が、今夜は暗くて余計に掴み所がない。

「私が一切気付かぬ、そう、獣はいないとすら私が思い込んでいた場所で、その裏で、配下の兵士が殺された。遺体は獣に食いちぎられたものだった」

「それが狼であったと?」

「その森にそれ以上大きな獣はいない。勿論、その地の住民が断言したのだ、これは狼に噛まれた、間違いないとな!」

その時ジャリ、と土を踏む音が聞こえた。
瞬時に司馬懿も、興奮ぎみに話していた曹丕も、弾かれた様に辺りを警戒する。
音源の方へ向く――と言っても、その音がどこからしたのかもハッキリと分からない。
司馬懿と曹丕は互いにあらぬ方向を見ていた。

「何だ今の音は!?」

人ではない。
人にしては音が大きすぎる。
心臓がぎゅっと握られている様に痛み、曹丕は早鐘を打つ胸を押さえる。
司馬懿も周りに気を張り詰めているらしく、微動だにしない。
暫く二人はそうやって立ち尽くしていたが、二回目は聞こえなかった。

「気のせいか……?」

まだ安心するには早いと心身に刷り込まれた恐怖がそう告げているが、とりあえず曹丕は刀の柄から手を放した。

「──殿下」

「……なんだ」

司馬懿も緊張が解けたらしく、ゆらりと曹丕の傍へ移動した。

「どうした」

緊張は解けた……だが、何か別の感情が取り巻いているように見える。

「戻りましょう」

「は?」

「一刻も早く戻りましょうと言っているのです」

「黙れ、何度言えば」

「冗談ではありません!本当に狼が出たら笑い事ではないのですからっ!」

「っ──」

仲達が、声を、荒げただと!?
普段感情的になる事がない相手だっただけに、とても、驚いた。

「もし怪我をされたらどうされるのです!?怪我で済むならまだ良い」

「お前、誰に対して物を言っている」

「貴方です!魏王第一公子の貴方に!」

「痛ッ」

司馬懿に腕を取られた。

「無理にでも連れて帰る所存です」

「放せ!無礼な!」

「無礼でも結構!貴方がもし傷でも負ったら私はどうなるとお思いですか!?」

「な、に!?」

腕を振り払うが、むしろ腕は強く握られる一方。
こんなに力が強かったのかと驚くほどに。

「お前は、自分のために、私を連れ戻そうと言うのか!?」

一瞬、ほんの一瞬だけ司馬懿の顔がひきつったかのように見えた。

「貴方がもし傷でも負えば、私は罰を受けます。場合によっては極刑です」

「……ああ、そうだろうな」

「例えそれが貴方の我儘に端を発する事態であっても」

「……残忍な第一公子に我慢して仕えてきた苦労も、水泡に帰すだろうな」

曹丕の言葉に反応する様に、一瞬腕に力が更に籠る。
痛みを気取られるのがしゃくで、顔では平然を装った。

「私だけではない。司馬家も罪を問われる可能性もある。それを恐れるのは悪い事ですか。己が身を守ろうとするのが悪い事ですか」

「……それだけか、仲達」

「え?」

「自分の栄達の道が侵されるから……そうではないのか?」

「…………」

月が雲間に隠れ、路は完全に暗闇に閉ざされる。
なのに司馬懿の瞳が、獰猛に煌めいた。

この目は──
あの森で、一瞬傍を何かが通りすぎた時に見た──。

一瞬過ぎて、見た事も覚えていなかった。
あの時の事件を忘れてしまっていたように。

狼──!

「仲達……放せ」

「放せません。貴方をこのまま連れ帰る」

「帰ると言っているのだ!だから放せ……一人で歩かせろ」

「…………」

司馬懿は窺う様な顔をしたが、やがて、手を下ろした。

「……本当に帰りますね?」

「ああ、帰る。もう狼探しは良い」

「……本当に?」

「しつこいぞ仲達!もう良い。戻る」

曹丕の言葉に司馬懿は、微かに安堵の息を漏らした。
その顔に、先程までのような獰猛さは見えない。
狼は、隠す事が出来るのだ、その獰猛さを──。

「狼は探すまでもなかった……」

「はい?」

「……興が削がれた。後は勝手に探させろ」

「は、はぁ……」

いつもの側近だ。
私の、飼い犬──

ちりりと傷む腕の着物をめくった。
灯りをかざす。
腕に爪痕が残っている。
狼の牙跡か──面白い。
狼を飼うというのも面白いではないか。

「では私は兵達に指示を」

「お前も来い、帰るぞ」

「え?」

「酒の一杯でも付き合え」

「はぁ」

「久々にお前の下手な詩を聴かせろ」

「それは、ご勘弁下さい……」




〔終〕




○あとがき○

タイトルは太宰治の「畜犬談」より。
全体的に畜犬談オマージュにしようと思ったんですが、そうもならなかった感じで。
司馬懿=狼ネタ好きです、狼顧の相とか。
最終的に狼は捕まったんだと思いますが、曹丕には興味無いのでどうでもよいのです。
孔明、司馬懿、陸遜それぞれ無感動っぽいイメージがあるのですが、孔明は人見知り且つそういう風に振る舞ってる、司馬懿は普通に変人、陸遜はクールっていうのが私のイメージ。



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