「……いや、そうです。迷惑というか、困惑しました」
二つ返事で誘いに応じておいて、面倒な奴だと自分でも思う。
「ご自身で思われてるより貴方はつまらない人間ではないと思いますが。少なくとも私は、貴方と話していて面白い。新鮮ですし、学ぶ所も多い」
「そうですか?」
「そうでも思わないと、貴方を真似て書を読んだりはしない」
趙雲の言葉に、ハッとして顔を伏せる。
濁った水面を見ても、自分の頬が赤いのかは分からなかったが、見なくても充分わかるほどに顔が熱い。
顔を見られたくなくて、背を向けて顔を伏せた。
しかしそんな努力を無駄にするかの様に、趙雲は孔明のすぐ隣、江の岸ぎりぎりの際に立って並んだ。
「何故その様な事を訊くのです?」
趙雲は孔明の反応を知ってか知らずか、答えにくい事を訊いてくる。
「だから、困惑したのです」
「困惑」
「どうして、貴方はそんなに私に優しいのでしょう」
水面に映るから、顔を上げなくても相手の顔を見れるのは助かる。
同じ様に、相手にもこちらの顔が見えているわけだが。
「自惚れですかね。なにぶん、私は永らく人里離れて暮らしていましたから、人との付き合いはどうも苦手で」
「孫権軍相手に一人乗り込んだお方が、よくおっしゃる」
水面に映る趙雲は、軽く嘲るように笑っている。
趙雲は、こちらがおかしくなるくらい優しいが、たまに酷く意地が悪いと孔明は思う。
いつもが優しい分、顕著に感じるのかもしれないが。
「説客としての仕事は、相手に自らの要求を押し付けるつもりで当たれば良い。軍師も一緒です。はじめから、互いにそういうつもりで臨むのですから、楽です」
「楽、ですか。普通の人にはそうは思えないでしょうが」
「私は普通ではないのかもしれません」
「でしょうな」
予想外の答えと声音に、思わず顔を上げて直に趙雲を見た。
反応するように、趙雲もこちらを見る。
虚像ではない趙雲の瞳はあまりに光が強くて、目を反らしたいのに、反らせない。
黒目がちな瞳に、己の姿が映っているのが、孔明にはいやというほど分かった。
趙雲は低い声で続けた。
「貴方は、龍でしょう」
「まさか。伏龍などという人もいましたが」
「私には、貴方がそういう風に見えるのです。とにかく、普通じゃない――」
「そんな……意味がわかりません。私は周りと同じ、しがない人の身です」
「私にも分からない。ただ、どうしようもなく惹かれる」
「――っ」
見てはいけない。
瞬時にそう思って、強い引力を持つ瞳の光から逃れて、顔を伏せた。
「だから、どうして、そんな風に――」
水面に、趙雲の顔は映っていない。
相変わらず孔明の方を見ているのだ。
「その質問に答えるには、私の質問に答えてもらわなければ」
「……?」
「奥方様が最後に言われたこと」
胸が張り裂けそうだ。
「『貴方に想われている人は』……と言うのは」
「それは……」
「どういう意味ですか?奥方と何を話したのです」
「…………」
「先日、朝議が終わってすぐに奥方の部屋へ向かわれましたね。奥方が実家に帰る由を発表した日です」
「……何故貴方が、それを」
「怪しい動きをする者には、無意識に気が付くよう訓練をしています。貴方は、隠密行動はあまり得意ではないようですね」
「……以後気を付けましょう」
「あの時、貴方は奥方から相談されたのだろうと思いました。話は、それだけでしたか?」
「特に貴方にお伝えする事は、話していないつもりですが……」
顔を直接に見ているわけではないのに、突き刺さる様な視線を感じる。
顔が、いや身体全体が無闇やたらと熱い。
特に、趙雲側の身体の部分が。
「質問を変えましょう。誰ですか、それは」
本当に、時々怖いくらいに意地が悪くなる。
特に今日は悪いらしいと、苦し紛れに苦笑する他ない。
「そんな事を、なぜ」
「私が答えるのは、貴方が質問に答えてからです」
軍師に舌戦を挑むとは良い度胸だと思う一方で、勝算すら見えないのが現状だ。
趙雲相手では、どうにも上手く返せない。
「そ、そこまで意固地になる、貴方の意図が分かりません」
チラリとだけ、横目で趙雲の顔を盗み見る。
すぐに、見なければ良かったと後悔した。
あまりに真剣な表情に、すぐに飲み込まれそうになる。
「……そうですね、冷静さを失っていたようです」
そう言って謝るわりには眼光の鋭さを弱める気配はない。
「奥方に抱き締められて、その後すぐにあんな言葉を――傍で見ていた私の気持ちは、貴方には分からないでしょう」
気づけばまた、正面から向き合っていた。
胸の鼓動がたまらないくらい喧しく鳴り響いている。
なんて瞳で見るのだろうと孔明は思った。
なんて強い、熱い瞳で私を見るのだろう。
その熱さの中で、微かに獰猛な気配すら感じる。
「孔明殿、私は――」
「や、やめてくださいっ!!」
孔明自身が驚くくらい、大きな声で叫んでいた。
近くで羽根を休めていた水鳥達が、一斉に宙に舞い上がる。
「それ以上は――」
崩れ落ちる景色の中で、茫然とする趙雲の顔が一瞬だけ目に入った。
「孔明殿……」
「後生ですから、お願い……」
波の音が近い。
いつのまにか、孔明は座り込んでいた。
「孔明殿……」
呟く趙雲の声が、こちらが泣きなくなるほどに細く切ない。
違うんだ、と打ち消したいと心が叫ぶ一方で、怖い怖いと体が震えている。
――怖い?
そうか、私は、怖かったのか。
「申し訳ありません。つい、私は、一人勝手に……」
あまりにも弱々しいが、いつもの優しい趙雲の声だった。
「私は、貴方が幸せであって欲しいと、それが一番ですから――」
顔を上げられない。
どんな顔で趙雲を見たら良いか分からない。
――違う、違うのに。
もはや自分がどうしたいのかさえ見えない。
「貴方には、喜びや楽しみだけを、与えたいのです」
言い終わるや、趙雲が指笛で馬を呼んだ。
すぐに、二頭の馬が駆けてくる。
孔明が乗ってきた馬ではない。
恐らく二頭とも趙雲の馬なのであろう。
「帰りましょう、軍師殿。私と一緒なのは嫌かもしれませんが、貴方を一人で帰すわけにはいかない」
恐らく、今一緒にいるのが辛いのは趙雲の方であろう。
なのに、こうやってやるべきことはやる。
そういう誠実な所が孔明は凄く、凄く好きなのだ。
「……私の、仕事ですから」
〔続〕
○あとがき○
趙孔をいちゃいちゃさせたい反面、なかなかくっつけたくないという想いがある。
正史の劉備と孫夫人はあっさり別れてしまいますよね。
でも私はやっぱり仲の良い二人が好きです。
趙雲と張飛が尚香の乗った船まで追いかけて、阿斗を救出して帰る…という様な記述が正史注にあるのでどう表現しようか…と少し悩みました。