一番強く尚香を引き止めたのは阿斗だったであろう。
近頃ようやく歩き始めた阿斗は、周りにダメと言われようが構わず尚香についてまわった。
結局、最後の最後、尚香が乗る船の上にまでついていった。
「阿斗ちゃんダメよ。ここでお別れ」
尚香は、落ち着いた旅装に身を包んで、すがり付いてくる阿斗を諭している。,br>
今日、尚香は呉へと帰る。
清々しいくらい、晴れた秋の空だった。
これならば帰り道も問題なく無事に辿り着けるだろう。
「いや!いっちゃやだ!」
まだたどたどしい口調で、必死に阿斗が泣き叫ぶ。
趙雲が無理に抱き上げて捕まえなかったら、船から降りようともしなかっただろう。
そんな阿斗を見送りに来ていた孔明も、張飛も、誰もかも強く叱れないでいる。
むしろ阿斗が羨ましくすらあるのだ。
なりふり構わず泣き喚いて引き留めることも、彼等には出来ない。
「本当にいっちまうのかよ……」
岸辺から見送る張飛が呟いた。
孔明が心配したよりも、張飛はあっさり尚香の帰郷を受け入れた。
しかし、それは理性の部分。
心根の部分では、納得いかないに違いない。
それは、孔明とて同じである。
孔明は何も答えず、静かに船の甲板へと上がる。
「孔明殿、手を」
阿斗を抱いているのとは違う方の手を、趙雲が差し出す。
その手を受けるかどうか一瞬まごついて、結果孔明は手を取らなかった。
「大丈夫、貴方は阿斗様をしっかりと抱いていて下さい」
「そうですか……」
「でも、ありがとう」
代わりに、微笑みを返した。
趙雲は幾らか驚いた様だった。
「奥方様」
始めこの地へ舞い降りた時とはうってかわって落ち着いた印象の尚香が立っていた。
この年代の女性は、あっという間に雰囲気が大人びるのだということを、傍で指導してきた孔明は今ひしひしと感じている。
「髭殿にも船が通る旨、伝えてあります。それでも引き留められた際はこの手形をお見せください」
「ありがとう」
「……お元気で、いつまでも」
「貴方こそ、あまり仕事し過ぎないように。いつも顔色悪いから、ちょっと心配だった」
「まさか最後にお説教を受けるとは」
孔明と尚香が、顔を見合わせて笑いあった。
こうやって笑いあうのもこれが最後だと思うと、不思議とその笑い声にも哀愁が帯びる。
「本気で心配してるのよ。貴方には勉強教えて貰ったり、色々お世話になったし、それに……」
不意に、尚香が強く孔明の手を引きよせた。
「私、玄徳様の次くらいには、貴方が好きよ」
小さい身体で、黒衣の孔明を抱き締める。
しかしそれはほんの一瞬で、孔明が事態を認知する前に互いの身体は離れていた。
ふわりと、尚香が普段から愛用している香の薫りが孔明の鼻をくすぐる。
尚香の部屋の薫りだと、すぐに分かった。
「お、――」
孔明が声にならない声をあげると、尚香は例の、いたずらっぽい顔で笑った。
後ろで、微かに趙雲が呻いた声もした。
「羨ましいわね、貴方に想われている人は」
「――――」
香の薫りは、甲板に吹く強い風の中にすぐ掻き消されてしまった。
趙雲に抱かれたままの阿斗のぐずる声が、甲板に響く。
「さようなら。玄徳様にありがとうって伝えてね」
別れの言葉は呆気にとられるほどアッサリとしていて、それがまた尚香らしく思えて、孔明は苦笑した。
尚香の乗った船が去った後は、面白いくらい皆が静かだった。
あの華やかな姫の姿が消えたのだ。
暗くなるのも仕方がない事であろう。
数日の間は、ずっとこんな暗い空気が続くのだろうと皆が思った。
孔明は最期まで、船が見えなくなってから随分経っても、一人岸辺からたゆたう江の波を見ていた。
もう、周りには人影はない。
ただ一人、趙雲を除いては。
「孔明殿」
音もなく一人佇む長身の孔明の姿はあまりに出来すぎた絵の一部のようで、その世界の均衡を犯してよいのか。
短くはない間そう悩んで、とうとう趙雲は背後から声をかけた。
静かな声音で、出来るだけ世界を壊してしまわないように。
孔明は、ゆっくりと振り向いた。
少し驚いているようにも見えたが、趙雲の到来を待っていたかの様な、そんな感じもする表情。
冷えた秋の風が孔明の細い髪を揺らめかせる。
「まだお帰りになってなかったのですか。それに――人払いをさせていたのですが」
「申し訳ありません。孔明殿の侍従は先に帰らせて、私が代わりに」
「代わりに――なんです」
孔明が再び視線を江の方に戻したため、趙雲からは顔が見えない。
人影の無い港には、波の音、水鳥の声だけが遠慮がちに響いている。
「私が、送りましょう。お一人では危険です」
「…………」
問いを返しても、孔明は答えない。
次に趙雲が再び呼び掛けるまで、暫しの間二人は黙って江を眺めていた。
絶えず、休む事なく波は岸まで打ち寄せている。
「ここは冷えます。ずっとこうしていては、お体に障りますよ」
早くも陽が傾き始め、風はさらに冷気を帯びていく。
いつまでもここでこうしているわけにはいかない。
「……貴方は、先日も同じ事を言いましたね。二人で少し仕事を抜けて、紅葉を見に行ったとき……」
「ああ、そうでしたかな。申し訳ありません。なにぶん、会話の引き出しが少ない男でして」
「何故、私にそんな……」
「……ん?紅葉を観に誘った事ですか?」
「うん、いや、それも……」
「二人で見たかったからですかね。三人で見るのも良いが、貴方と二人で観るのも良いと思った」
「私が社交的で愉快な人間だったらそう思うのも分かりますけど」
「優美な景観を観るつれに、そんな要素を求めるものですか?」
「求めませんけど……」
「……お誘いして、迷惑だったのでしょうか。ならば」
「いや!違います。それはっ」
咄嗟に、顔をあげて孔明は向き直った。
趙雲は困った顔をして思ったよりも近くに立っていた。
やや軽めの武装で、均整のとれた身体の線がいつもより良く分かる。
腰には一振り、剣を佩いている。