軍師殿と私 別離の岸辺−2


「何か密書等を携えておりましたか?」

「いや、書は無い。直接言葉で伝えてきただけ」

「なにと」

「お母様が重病だと」

しばし、孔明が言葉をなくす。

「まことでございましょうか」

「……どうかしら、あまりにも突然で。ないとも言えない。そういう理由だから、今すぐ帰郷するよう催促されてるの、私」

「…………」

尚香の実母である、呉国太の急病では、荊州からは簡単に確認のしようがない。
今度は二人して黙りこんだ。
この沈黙は、暫く解かれることはなかった。

「奥方は、いかがいたします」

沈黙の果てに孔明が問うと、尚香はゆっくりと顔を上げて、その青い瞳で孔明を捉える。
赤みがかった髪色、澄んだ青い瞳――どちらも尚香の特徴的な外見である。

「私に決定権はあるの?」

「それは……勿論。奥方のご実家の事であります故、我々に口を出す権利は……」

「私が帰ると言ったら帰っても良いの?」

「………」

孔明は答えなかった。
否、答えられなかった。
様々な葛藤が孔明の脳内を駆け巡る。
劉備が益州攻略に乗り出した時、そうでなくてもいつかは、こうして孫家が尚香を呼び戻そうとすること……最初から分かっていたのである。
軍師の立場からすれば、孫家の姫を手元に置いておく事は明らかな利点になる。
しかし、一方でそういうつもりで尚香を返す事を拒否すれば、孫家との対立を明白化させてしまう。
主軍が不在の今、孫家との対立は避けざるをえない。
――また孔明は、諸葛孔明といういち人間として、尚香を返したくないと思っている。
此度返せば、二度と尚香には会えなくなるだろう。
せっかく馴染めてきたという頃だ。
それに孔明は、劉備と尚香の仲睦まじい夫婦の姿を見るのが好きだった。
しかし、そんな個人的な心情をも俎上に乗せるのであれば、尚香本人の心情も慮らねばならない。
母親が重病かもしれない、家族親族を裏切れない。
軍師としてその様な尚香の心は黙殺することも出来る。
しかし孔明は、出来ればそれはしたくなかった。

「奥方の……御心のままに」

「そう……」

尚香はふんわりと、どこが儚げな笑みで返した。
これほどに大人びた表情をする娘だっただろうかと、刹那孔明がハッとした。
尚香の特徴的な赤い髪が光を受けて、柔らかく煌めいている。

「……玄徳様にお別れ、言いたかったな……」

誰に言ったでもない微かな尚香の呟きは、秋の涼やかな空気に溶けるように吸い込まれた。
孔明にはそれだけで、尚香の意志は既に硬い事が理解できた。

「私ね、最初からいつかは遠からず帰るつもりだった。周りの皆、お世話になってた皆にも、そうやって呉を出てきたの」

「……はい」

「政略結婚だって分かってたから、機会が来たらすぐ帰るって」

「……はい」

「……先に約束した方を守らなくちゃ」

「…………」

声に僅かに震えが走った様に聞こえ、孔明は顔を上げて尚香の顔を真正面から見据えた。
声に反して、尚香の表情は凛として気高いものだった。
一目見たときから姫らしくない、劉備の妻に相応しいのだろうかと散々思ってきたが、こういう状況においてはやはり立場に相応しい振舞いをみせる。
立派な女性だ、と思う。
出来ればこの先もずっと劉備の傍で笑っていて欲しい。
しかし尚香が決意を固めた以上、孔明から何か言うつもりはなかった。

「皆にはどう発表する?」

「奥方が出られた後、私の口から言いましょう。ご母堂が重病であるから見舞いにと」

「それで皆納得するの?それに……貴方にばかり責任が」

「むしろ出られる前に言った方が納得しないでしょう。張飛将軍あたり……」

そうかもしれないわね、と言ってひとしきり笑った後、急に真面目な顔になって尚香は続けた。

「でも、やっぱり私から言わせて。黙って出ていったんじゃ、皆にお別れを言えないから」

「……奥方がそう望まれるのであれば。しかし、呉の者たちもそれで承諾しますか?」

「要求通りにするんだもの、それくらいのワガママは聞いてもらうわよ」

そう言って、尚香らしいいたずらっぽい顔をする。
年相応より少し子供っぽい表情。

「……帰るって言ってるくせにこんな事言うのも身勝手かもしれないけど、私、玄徳様の事本気なの」

「……奥方様」

「子供を生んであげたらとも思った。それは本当……」

「ご自身の身の上をお嘆きでしょうか」

「……いや、私はそれでも幸せな方でしょう。無理に結婚させられて、無理に別れさせられて。それでも私は本当の愛を見つけられた」

「…………」

「結婚相手を生涯愛せない人だっていると思う。それに比べたら、こんな短い間で私は本気で玄徳様を愛せた。それは、幸せ過ぎて涙が出るわ」

孔明は、かける言葉がみつからない。
普段溢れるように言葉を紡ぐ口が、今日は嫌になるくらい寡黙だった。
こういう時、上手いこと一つも言えない我が身が苛立たしい。

「それだけで幸せ。少なくとも不幸じゃない」

「貴女が、幸せだったと思えるなら、私は……」

「だった、じゃない。これからもずっとよ。玄徳様を想うたび、辛くなるかもしれない。でもそれは不幸であることにはならない」

「私には少し、難しいですね……」

「あら、私より貴方の方がずっと頭は良いはずなのに」

尚香が笑う。
つられて孔明も少し笑った。

「好きな人を愛したし、これからも愛せるの。傍にいなくても、それだけは許される。幸せなことよ、きっと。愛する相手がみつからない人も、愛した相手を愛する事が許されない人もいる」

尚香の言葉に思わず、孔明ははっと目を見開いた。
不思議そうな顔の尚香と視線がぶつかる。

「あなたはそういう人?」

「い、いえ、私は」

「奥さんがいたと思ったけど……いや、いるからこそなのかしら。……ごめんなさい、追求するのも無粋よね」

「いや、その……」

「もう最期だからと思って許してね。……でもそんな貴方の前で私酷いことを言ってしまったかも」

「いいのです、私は……。そういうのでは……」

目を伏せても、青い瞳がこちらを見つめているのを感じる。
戸口の傍で控えた侍従は、時おりその存在を忘れてしまうくらいに気配がない。
尚香がこんな場にも同席させているのだ、それほどに信頼がおける人間なのだろう。

「……深くは聞かないけど、なんだかごめんなさい。でも、上手くいくと良いわね。適当な事をと思うかもしれないけど」

真摯に謝られると、余計辛い。

「いえ、本当に、何でもないのです。あってはならぬと……」

「貴方自身が思うのね」

「……はい?」

「こんな想いは、持ってはいけないと」

「…………」

会話が途切れた沈黙の間だけ、遠くからかすかな生活音が聞こえる。
遠い喧騒の合間に、三人の息遣いが場を静かに満たす。

「私も最初は似たようなものだったし。それを、好きになるべき相手を好きになれたら幸せじゃないかって言われて……」

孔明は黙っていたが、この言葉は孔明もそこに居合わせて聞いている。

「玄徳様を好きって気持ち、認めようと思ったの。そうしたら、本当に幸せだなと思えるようになった」

その言葉が嘘じゃないのは、尚香の表情から分かる。
寂しいけれど、確かに満ち足りた顔。
今の自分にはとても出来ない表情だと孔明は思った。

「こんなに早く別れが来る相手が、好きになるべき相手だったか、今思うと疑問だけどね。でも私は幸せだったから良い。確かに妻として玄徳様を想うのは幸せだった」

だから――と言って、尚香はじっと孔明を見つめた。

「想いは実らなくても、その想い自体を否定するのはやめて。人が人を好きになる事自体は誰にでも許される行為だもの」

「…………」

「案外、認めちゃうと楽になるものよ。認めて、客観視するの。悩んでるなら、貴方のためにもなると思う」

自分は今、泣きそうな顔をしてるんじゃないだろうか。
しかし尚香の大きな瞳に映る姿を見る限りそうではないようで、孔明は安心した。

「そうすればいつか、綺麗に心の中で整理できるかも。私は、そうするつもり。玄徳様を大好きだって気持ち、保管しておくの」

瞳の中の自分が揺れる。
そう孔明が思った次の瞬間、瞳から一筋涙が落ちた。

「……泣かないつもりだったのに」

尚香は照れたように頬を拭った。
それでも、一筋だけ。
強い娘だと素直に孔明は思った。

「……でも言ってしまえてスッキリした。こんな気分のまま、皆に話してしまいたい」

「では、私が」

「ありがとう、でもね、やっぱり一人で話したい。皆を呼んで集まったら、私一人にさせて、ね?」

「それは、――私が口出しする事ではありません」

「ありがとう。じゃあ皆を集めてもらえる?」

尚香の瞳にはもう、涙の影もなかった。




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