軍師殿と私 別離の岸辺−1


刳木して呉楚に出づ
危槎百余尺 疾風 片帆を吹き
日暮千里を隔つ 別時の酒
猶お在り 已に異郷の客と為る君を思えども
得可からず 愁えて見る 江水の

小舟を準備し呉楚の地へ旅立つ、危ないと思うほど大きくてぼろ舟。
疾風は帆をはらんでくれる、一日で千里、進ませる 別れの時の酒がま残っているほどなのに。
こころはすでに異郷の 旅人となる 君を思うが会うことはできない、愁い心でみるのは江水の碧だ

―――李白『江行寄遠』




朝いつもの時間に朝起きて、ゆるゆると出仕の準備をしていると、暁の静けさをかき乱すかのように一人の男が屋敷へと駆け込んできた。
朝と言ってもまだ空は暗いと言ってよいような、朝焼けにも早い頃合いである。
軽い朝食を食べ終え、そろそろ車の準備をさせようかとしていた孔明は、慌てて身支度を済ませて男を出迎えた。

「何事ですか」

孔明は出仕する以外でも夜更かししたり早起きしたりするのが日課であったため、妻を起こさず基本自分一人と家付きの下男だけで朝の用意をする。
故に男を応対する者がいないため、男は玄関先で今か今かという様子で待っていた。

「軍師様、こんな未明に失礼いたします!急いでお耳に入れたい事がございまして」

「いえ、もう出る所でしたから」

「ならば良かったです、実は夜半密かに呉の方より密使が参りました」

「呉の密使!?……奥方へ、ですか」

「は、流石に軍師様察しが素晴らしき事にございます。確かに姫君の元へ密かに参りました」

「……それは、穏やかではありませんね。して、貴方を遣わしたのは誰です」

「他ならぬ姫君にございますれば」

「なんと」

「姫君が、密かに貴方様にだけお知らせせよと」

「……それは、ご信頼頂けて光栄です。しかし私は今から朝議に出なければならぬのですが、奥方は急ぎで私を呼んでいますか?」

「いえ、姫君は貴方様の指示に従うと」

「……なるほど、では使者が来た事は気付かれぬ様伏せるように。朝議が済んだらすぐに向かうと伝えなさい」

「承知しました」

男は手短に礼を済ませ再び薄闇の中へ消えていく。
秋も暮れ始める頃、朝となればもう刺すように寒い。
孔明はさらにもう一枚、麻の上着を羽織った。
この様な時期に呉から遣いとはなんだというのであろう。
支配者たる劉備が不在の時―この時節の一致は偶然ではないだろう。
―いや、本当は孔明自身、その胸に推測というにはあまりに確証的な考えが、一つ浮かんでいる。
それは孫家の姫を迎え入れた時から既に始まっていた不安。
それが今、劉備が不在という今、ある意味至極真っ当な時に現実となっただけの話である。
劉備の軍師として、孔明は最初からその可能性はずっと考え、その時にどう対応すべきはいつも考えてきた。
いや、そういう最期を見据えつつ、劉備に婚姻を勧めたのだ。
乱世の常だ、劉備も初めから承知しているだろう。
それでも孔明の宮殿へ向かう足取りは重かった。



孔明は約束していた通り、朝議を終えるとすぐに後室の尚香の部屋へ向かった。
慌てた様子を見せてしまうと周りに不審がられる危険もあるため、目立たないようにそれとなく人目の無い道を選んで進んだ。
馬謖も侍従も誰も連れていない。
流石に後室の範囲内に入ると、めっきり人影は少なくなった。

「孔明にございます。奥方にお逢いしに参りました」

孔明が室外からそっと、しかし良く通る声で呼び掛けると、すぐに戸が開かれた。

「諸葛軍師良く来てくれたわね、さあ入って」

部屋の奥、中央の腰掛けに部屋の主たる尚香が堂々たる姿で座っている。
思ったより狼狽した様子も、意気消沈した様子もなかったため、孔明はひとまず胸を撫で下ろした。
孔明が音もなく室内へスルリと入ると、戸を開けたのと同じであろう、女の侍従が戸をすぐに閉めた。
部屋には尚香とその侍従しかいない。
女侍従は尚香が呉より輿入れした時よりついてきている、尚香に長年仕えている者のようだ。
孔明もよく見覚えがある。
当所荊州に来た時は、主の意向もあってか武装していたが、今日は派手でもじみでもない正妻の侍従たるに相応しい女装に身をやつしている。

「一人?」

高い、透き通るような声でポツリ、尚香が問いを発した。
部屋は小綺麗に纏められ品の良い香が焚き染めてあるという点では女性の部屋らしかったが、その部屋に不釣り合いな壁に飾られた武具の数々も、度々尚香に学問を指導してきた孔明にとっては、最早見慣れた光景である。

「いかにも」

孔明は、慣れた様子で部屋中央まで進み、礼をしてから腰を下ろした。

「随分不用心な事ね。てっきり趙雲将軍でも連れてくるかと思ったわ」

「どういう意味でございましょうか」

「私が貴方を人質にして呉へ帰るという可能性は考えなかったのかしら」

尚香は、美しいというより可憐な笑い声をあげた。
当所はもっと豪快に笑う娘だった、と今となっては懐かしくすら思える。

「奥方が私を信用してお呼び下さったのです。臣たる私めがそれに誠実に答えんとしてどうしましょうや」

尚香がまた笑う。

「分かってるわ、私にはそんな事できっこない……貴方はそれを分かっているのよね」

「奥方、では呉よりの遣いは」

「奥の部屋でずっと待機させてるわ」尚香が部屋の奥を示しながら言う「船も隠させたし、まだ誰にも気付かれてないと思う」

「さようにございますか。して、用件は」

「……貴方の予想通りだと思う」

初めて尚香が、辛さを誤魔化すような笑いをした。
孔明も、予想した答えだったとはいえ、一瞬息を呑んだ。



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