軍師殿と私 新たなる日々-4


 果たして、成都城西部にそびえる塔の一階の一室に、孔明は居た。 元からここにあったものと、新たに孔明らが運び込んだものが雑多に紛れているのか、室内は雑然としている。 入口が開け放たれたままなのは、換気の為か、はたまた単に閉める余裕がないだけか。 決して狭くはないと思われる部屋だが、ろくに落ち着ける場所すら無いのはいかがなものかと趙雲は心配になる。

「孔明殿?」

 呼びかけてみると、高く積まれた行李の塔の合間から孔明が顔を出した。 かなり長身のハズだが、荷物に覆われて隠れてしまっている。 やっと全身が見えるようになると、いつもの黒染めの鶴氅衣は羽織っておらず、中衣に褲のみという簡素ないでたちだ。 勿論愛用の羽扇をたなびかせてはいない。 引っ越し作業の為、動きやすい服装にしているのだろう。

「え、子龍殿?どうしました」

孔明は手に持っていた竹簡の束を床に直接置いた。 冠もつけておらず、直接髪に巾を巻いている。

「私もいますよ」

趙雲の後ろから馬岱が顔を出す。 一回り以上小さいので、真後ろに並ぶと馬岱の姿は完全に隠れてしまうのだ。

「馬岱殿まで。何か御用ですか?」

「用といえば用なんですが、それどころではなさそうですね」

趙雲は辺りを見回して言った。 今日中にこのもの達をどうにかするのは無理だろう。

「どうせ片付きませんし、急ぎの用なら先に聞きましょう」

そう言えば荊州の頃も、孔明の部屋はさほど片付いていなかった。 部屋に対して荷物が多すぎる予感は既にある。 孔明の言も最もだと趙雲は納得したが、馬岱は予想外の言葉に少し面食らったようだ。 自他に厳しいこの軍師は、部屋の片づけに関してはいささか無精だというのは、確かに知らないと驚くだろう。

「片手間にする話ではないかと思われますが」

「……?、なんのことでしょうか」

「単刀直入に言います。私は殿から貴方が何か困っているようだから、力になるよう言われて来ました」

孔明の表情が、俄かに厳しくなる。 これは間違いなく何か隠している。

「詳細は聞かされていません。単にここの片づけが……という話ではなさそうですね」

「……殿に言われて来たのなら仕方ありません。座れる間を作りますから、こちらへ来て座ってください」

 そう言い終わるや、孔明は辺りの行李や竹簡の束を乱雑にどけて、三人がなんとか座れるだけの隙間を作った。 床はまだ掃除が行き届いていないらしく、ザラザラと埃っぽい感触がするが、戦場よりはいくらかマシだ。

 三人は頭を突き合わせるような形で座った。 間近で見ると、孔明の細い鬢にも埃がかかっているのが見えた。 隣室からは相変わらず物音が聞こえてくる。 孔明と同じく、左将軍府仕えを任じられた者たちが片づけを続けているのだろう。 馬岱はともかく、背の高い趙雲と孔明が固まって座るとなんとも窮屈だ。 趙雲は早速話を再開した。

「それで、孔明殿は何をお困りなのか」

「…………」

仕方ない、と言ったわりには孔明は言うか否か逡巡している。

「そんなに私には言いたくありませんか」

何故頼ってくれないのか、という想いが自然と語気を荒くした。

「本当は他人に言うべき話ではないのです。私のごく個人的な事なので」

返す形で、孔明も強い口調で答える。 他人、という言葉に少なからず趙雲は傷ついた。 そうして次の言葉に躊躇しているうちに、代わりに馬岱が答えた。

「お気持ち察しますが、だからこそ早急に解決すべきではありませんか。私は貴方に借りがあると思っています。それを返す機会ならば、是非お力添えさせて頂きたい」

馬岱はなかなか話の誘導が上手い。 舌戦では敵なしと思われた孔明に対し、上手く流れを作っている。 借りを返す機会を早くくれ、と言われたら孔明も無下にはしにくかろう。 孔明は再度逡巡する表情を見せ、大きく嘆息し、二人に向き直った。

「身内の恥と承知で言います。実は、私の妻の連絡が途絶え、行方が分からぬのです」

「えっ」

「なんと」

とんだ一大事ではないか⁉ しかしこれでは趙雲を「他人」と称するのも無理はない。 夫妻の話となれば、それ以外全ての人間はまさしく他人だ。 とりわけ、二人には子はいないので。

「黄氏―でしたか。それはいつ頃から?成都にはまだ入られていなかったと思いますが」

当然ながら、将兵らの家族は行軍にはついてこない。 成都を無事攻略し幾らか落ち着いた今ようやく、ちらほらと荊州に残されていた家族たちが、夫や子供に呼ばれて益州入りをしている。 孔明の妻たる黄氏もまた、その例外ではなかったはずだが……。

「成都入りして、そろそろ落ち着けるかと思い、荊州へ人を遣りました。それはもう十日ほど前の事です」

「その者はなんと?」

「我が家は蛻の殻で、無人だったという知らせが届きました」

「……無人?それはおかしいですね。奥方様はどこへ行かれたんでしょう」

馬岱の問いに、孔明は答えなかった。 代わりに趙雲が考えを述べた。

「案外荊州に残った者達から成都入城の話を聞いて、こちらへ向けて出発したのでは?」

「念のため、その可能性も考えて各関所にらしき人間が通った場合は連絡するよう申し付けてあるのですが」

「まだ連絡はない?」

孔明は黙って頷いた。

「関所の人間も単に見落としているだけかもしれませんよ。女性の脚ならまだ到着まで時間がかかるでしょう」

そう言う馬岱自身が、自身の主張が頼りないことを知っている表情だ。 仮に家を既に発った後だとしても、それ以降なんの連絡もよこして来ないのはおかしい。 出先で何か不足の事態に巻き込まれたか、あるいは――

「私は、妻はこちらに来る意志がないのだと思っております」

「え?」

「実家の方に帰ったのならば、それで私は良しとします」

余りにも、他人事のように淡々とした口調。 何がどうしてそうなったのか。 続ける言葉を探している間に、またも馬岱が先に答えた。

「ご家庭の事に立ち入って申し訳なく思いますが、何かそう思うだけの予兆がおありに?」

馬岱は遠回しに不仲かどうか聞いたのだと思われるが、以前より夫妻を知る趙雲は知っている。 孔明とその妻の黄氏の間に、取り立てて不和は無かった。 実際、趙雲は孔明自身の口から妻を慮る言葉を聞いている。 ですが、孔明の返答はその趙雲の心理を大いに裏切った。

「あります」

「まさか、なにをおっしゃるか孔明殿」

「……ですがそれは私達の、というより妻の実家の問題ではありますが」

「黄氏の?黄氏は確か……」

「はい、かつての荊州太守劉表の後妻、蔡夫人の姪にあたります」

「と、いうと?」

「馬岱、私から説明しよう。劉表死後、重臣だった蔡瑁、これは蔡夫人の弟にあたるのだが、それが曹操に降伏して、現在曹軍の高官として働いている」

蔡瑁の顔は、趙雲も知っている。 曹操軍が南下し、民を連れて南に逃げることを決めた日から、会うことはなかったが。

「ああ、ご実家が今は曹操軍に……」

「私は元々、蔡家からは嫌われていました。自分達と共に劉表に仕えてくれると思って婚姻関係を結んでやったのに、長年仕官せず、蘆を出たと思ったら劉備殿で働き始めたので」

「それが今や敵国の軍師ですか。それは難しい事態になったものですね……」

「妻は隠しておりましたが、再三実家に戻るよう催促されていたようです」

 そんなことになっていたとは知らなかった。 なんとなく孔明が、自身の妻に遠慮があるように感じていたのは、そういう理由のせいだったのかもしれない。 新野の頃より、孔明は随分身分不相応な女を妻にしたものだと言うものはいた。 だから趙雲とてその事情を知らないではなかったが、今の年になってまで禍根を残すほどとは夢にも思っていなかった。

「それで、私が遠く出征している内に、今度こそ実家に戻ったのかもしれません」

「…………」

 趙雲は否定してやりたかったが、上手く言葉が見つからない。 隣に座る馬岱も、きっと同じ歯がゆさを抱えている。 正直、孔明の知らせを待たずに夫人が家を出たという説より、現実味がある。

「私はまだしばらく探させようと思いますが、お二方の力を借りるまでもありません。心配して下さったようで申し訳ないですが……」

孔明はもう、この話を終えようとしている。 そう察知した趙雲は、思わず制止の声を上げた。

「まだ分かりません。やはり、どこかの路頭に迷われているかもしれない!」

「子龍殿」

微かに憐れみと、憔悴のにじむ瞳で孔明は趙雲を見る。

「なんなら、私が荊州まで行って探しましょう」

「何をバカなことを。この建国間もなくの安定していない時期に、そんな事をする時間がありますか?」

「生憎ですが、私は兵の拡充が済むまで特にやる事もありません。その件で孔明殿に話がいくかもしれませんが、私は自由です」

 孔明はいかにもハッとしたような表情を見せた。 趙雲は今日所属が変更になったばかりであることを、思い出したらしい。 少しの間言い淀んで、結局諦めたように言った。

「……そうだとしても、やめてください。これは私の個人的な問題ですから、貴方に任せるにしのびない。お願いします」

断るというより懇願するような口調だった。

「ですが」

「貴方が良いと言っても、私が構うのです。ですので、この件はここまでということで」

「…………」

趙雲はなおも言い返そうかと思ったが、孔明の表情は既に覚悟を決めていた。 なんと言い募ろうと、恐らく折れることはないだろう。 隣の馬岱を見た。 馬岱は趙雲と視線を合わせると、小さく頷いた。

「分かりました、軍師殿。我々はもうこの件に関わりません。代わりと言ってはなんですが、部屋の片づけを手伝いましょう。貴方が貴方個人の問題に時間と思考を割けるように」

孔明は窺うように馬岱を見た。 何か他意が無いものか警戒したものと思われる。

「……ありがとうございます。将軍方の手を借りられるなら千人力です」

大仰な言葉の割に、あまり嬉しくなさそうな声色だ。 何故そこまで頑ななのだろうか、と趙雲は純粋に不思議に思った。

 孔明と趙雲、馬岱、そして孔明と共に左将軍府で政治をとることになる劉巴や董和、その息子の董允、他何人かの従者達で片付けは進められた。 孔明の言う通り、趙雲と馬岱の武将が入った事で力仕事は進んだが、門外漢の二人はいまいち何をどう置けばよいか分からず、作業は遅々として進まなかった。 それでも劉巴などは「お二人が来て下さらなかったら、一割も終わらなかった」などという。 あながち世辞でもなさそうだったので、二人は明日以降も手伝おうと決めた。

 そんな片づけのふとした折に、馬岱が例によって音も無くにじり寄り、趙雲に小声で訊いた。

「趙雲将軍」

「どうした、竹簡ならまとめて束にしておいてくれと聞いたが」

「片付けの話じゃありません。将軍は本当にこのまま手を引くおつもりですか?」

趙雲は、横目に孔明の様子を確認した。 董和となにやら棚の配置で揉めているらしく、暫くはこちらに意識は向かないだろう。 声を落として馬岱に答える。

「いや、どうしようか悩んでいる。殿にも頼まれた事だから放っておくには忍びないのだが、本人にあそこまで拒まれてはな。ここの片付けもあるし」

「片付けには、西涼兵から幾人か手伝いを寄越します。趙雲将軍はその間に動かれますなら、私がその間左将軍府を護ります」

「ふむ……じゃあ甘んじて私自ら探しに出ようか。しかし、それも後数日待ってからだ。数日経ってやはり音沙汰がないようなら私が行く」

「分かりました。そうされて下さいますと、私も安心します」

「こちらこそ、そうなった時は頼む」

「お任せ下さい。なんなら、馬超を呼んで参りましょう」

「まさか」

あの矜持の塊のような男が、この乱雑な部屋の片付けをするのか。 想像すると、あまりに似合わなくて苦笑する。

「冗談ですよ」

さもありなん。 ちょうど孔明達の会話が一段落したようだったので、趙雲と馬岱は何事も無かったかのように静かに離れた。

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