軍師殿と私 新たなる日々-3


 そう言えば孔明はどこで仕事をしているんだろう。 今朝の事を思い返してみる。 劉備の論功行賞を、劉備の隣で粛々と聞いていた。 揚武将軍、左将軍府事に任命されていたと思う。 朝議が終わった後は、確かに忙しそうに部屋を出ていった気がしないでもない。

 孔明は時間や仕事の進捗にはかなり厳密だが、普段の歩行自体はゆったりとしているので、今覚えばいつにないことである。 困りごととはなんだろう。

 自分に相談してくれれば良かったのにと思ったが、そう言えば趙雲と孔明は今度はゆっくり話し合おうという事になっていた。 そのせいで自分に話しづらいのであれば、本末転倒な気がしないでもない。 もしくは、劉備が適当に休めという意味で言った冗談の可能性も捨てきれないでいる。

 ともかく、趙雲は孔明を求めてうろつき回ることにした。

「子龍!どこ言ってたんだおめぇよう」

趙雲が宮城を歩く、というより迷っていると、不意に声をかける者がいる。 特徴的な声で、聞き間違えるはずもない。 案の定、過ぎた曲がり角の向こうから、虎髭の張飛がのしのしと早足で向かって来た。

「これは益徳殿、ごきげんよう。私なら今しがたまで殿の元におりましたが」

「兄者のとこか、道理で見つからねぇわけだ」

「私をお探しでしたか?それは失礼を」

「いや、大した事じゃねえんだが……」

張飛にしては言い辛そうに、虎髭を掻いて視線を彷徨わせる。 らしくないことに、何だろうと身構えてしまう。

「子龍、お前、法正と一緒に酒を飲む約束したか?」

突拍子もない問いだが、張飛の口からとなると、そうおかしなことにも思えないのは長年の付き合いのせいだろう。

「したと言えばしたような。しないと言えばしていなような」

「なんだそりゃ、ハッキリしねえな」

「今度一緒にどうでしょう、と言われて、良いですね是非と返しましたが、それだけですね」

社交辞令と言えば、そうとも断じてしまえるような応接である。 特に具体的な約束をしたわけではないので、答えが曖昧になるのも仕方がない。

「法正はオレに、お前も来るから卓を囲もうと誘ってきやがったぞ」

法正には社交辞令のつもりがなかったらしい事に、ほんの少し驚きもしつつ。 とは言うものの、そう思われていたとしても特に問題があるわけではない。

「へえ、まぁそういう機会があるなら私は構いませんが。なんとお答えしたんですか?」

「予定次第で今度答えるってな」

「随分らしくない返しをされましたね……」

おかしいというより、趙雲は妙に感心してしまった。 年を取って幾らか丸く穏やかになってきた面はあったが、それでも張飛は一か百かの男という印象が強い。 流石の張飛も、曖昧に濁すという芸当が出来たのか。

「自分でもそう思うぜ。本当にお前が来るのか信用できなかったし……、うーん、お前も来るならまぁ良いか……」

「益徳殿が酒の誘いを悩まれるとは珍しい」

「なんとなーくあの法正って奴、好きになれねーんだわ、オレ」

「おや、そうなんですか」

張飛の人の好き嫌いが激しいのは今に始まったことではないので、驚きはしない。

「益徳殿はあまり軍師という存在がお好きじゃないようだから」

「うーん、そういう事じゃない気がすんだよなぁ……軍師だからって感じじゃねーんだわ」

分かるような、分からないような。 当の本人が掴めていないものを、趙雲が掴めるはずもなく。

「オレは龐統の奴の事は好きだったぜ。それに、打算な事ばっかり言うのがつまらなかった諸葛の奴も、今になって意外とそう打算的な事ばっかりじゃねえなって思ってる」

「へえ?」

「なんでだろうなァ。法正と見てると、不思議とそう思えてくんだ」

「殿もおっしゃってましたが、法正殿は今迄うちの軍にいなかった風な人間だから、まだ違和感があるんでしょう」

「兄者もか?そういうもんかねぇ」

恐らく、張飛も法正の出世欲や承認欲求の強い面に戸惑っているのだ。 今迄の劉備軍は小規模で、立場争いがあるどころか常に人手不足が悩みの種だった。 だから、まだ国として各々の立場の上下を認識する状況に慣れていない。 そして法正は、その状況の象徴とも言えるだろう。

「法正殿へは、私が答えておきましょう。私と交えて三者でと」

「そうしてくれや。うまい酒を用意してくれってな」

やっと張飛らしい口ぶりが戻ってきて、思わず笑みがこぼれる。

「分かりました。伝えましょう。ところで、孔明殿がどこで仕事なさってるかご存じないですか?」

「諸葛の奴の?う~ん知らねえな、左将軍府?って奴はどこで開府するって話だっけか」

「張飛殿もご存知ありませんか。困りましたね……」

「私が存じております」

どこから現れたか、馬岱がいつの間にか二人の間に立っていた。

「わっ!馬岱」

「てめぇこの野郎、いつの間に……」

例によって、気配を消すのが上手い男だ。 二人の驚きを意に介さず、馬岱は淡々と話を進める。

「左将軍府は西の塔にて開府の準備が進められておりますよ」

「西の塔か……、と言われてもピンと来ないわけだが。馬岱は詳しいんだな」

趙雲に限らず、劉備軍の人間は、いまだ成都城の構造を記憶するに至っていない。 張飛は勿論、さっぱりという顔をしている。

「私と馬超の二人は他に恃む方もそう居らず、諸葛軍師の居場所はしっかり把握しておかなければと思っておりましたもので」

張飛と趙雲を前に、他に恃む者も無いとは、良く言えたものだ。 張飛の気に障るのじゃないかと趙雲は心配したが、逆にこの物おじしない態度は張飛の好むところだったらしい。

「おうおう、大した口ぶりだな。何ならいつでも酒の相手してやると、お前の所の若様に伝えとけ。ただし、酒の用意はそっち持ちだけどな」

「お伝えします。嗜む程度の量ですが、西の果てから運ばれた葡萄酒の備蓄があります」

「そりゃあ良い」

丸くまとまって良かった。 馬超と張飛でどういう話をするのか想像もつかなかったが、馬岱もいればどうにかなるだろう。 馬岱と張飛の会話がひと段落つくと、再び馬岱は趙雲に向き直った。

「趙将軍、私で良ければ案内しましょうか」

「良いのか?だと助かるのだが」

「ええ、構いませんよ」

他にアテもないので、馬岱についていくことに決めた。

 似たような構造の連なる宮城内を、躊躇いなく馬岱はスルスルと進んでいく。 西へ行くほど樹々が増えていく印象を受ける。 今になって気付いたが、逆側の東側は厩舎は調練場が固まっていた。 つまり、西を政務、東を軍事とする構造になっているようだ。

「すまないな馬岱。何か用があってあそこにいたんじゃないのか」

「用があるとすれば、貴方を探していたことです」

馬岱は歩を緩めないままに答えた。

「私を?何か用だったか」

「先ほども言いましたが、我々西涼勢が恃む相手は現状諸葛軍師しかおりません。ひいては貴方も同士だと思っています」

「同士とは……」

「貴方は諸葛軍師と争う立場には決してならないでしょう?」

「……それを再確認してどうする?」

一旦脚を止めて、馬岱は振り返った。

「お気に障りましたのならすいません。ですが、私としては、だからこそ貴方を信用できてありがたい」

「さっきから何を言っている?敵対だとか、信用するだとか」

趙雲が問うと、馬岱は辺りを見回した。 人の気配はしない。 まだ手入れの行き届いてない空白の区画だ。

「張将軍ともお話されていましたでしょう?法正殿です」

「法正?」

今日は随分と良く聞く名だな、と趙雲は思った。 論功行賞の最行賞、一躍客将から劉備軍の二番手に躍り出たと言っても過言ではない相手だ。 話題に上がるのも無理からぬ話であるが。

「あの人が功名心の強い人間だとは承知しておきながら、何故そう落ち着いていられるのです」

常に穏やかを貫いている馬岱にしては、妙に語気が荒い。 ただことではないと感じ、さすがの趙雲も居住まいを正して続きを促した。

「どういうことだ?」

「法正殿と諸葛軍師は立場を競合する相手です。だから、諸葛軍師を失墜させようとしていますよ、法正殿は」

「なんだと?」

「やたら積極的に周りの将と懇ろになろうとしてるのは、要は根回しです。自らの陣営を厚くしようとしている。あいにく、私と従兄上にはお呼びはかかりませんでしたが」

「じゃあ、私や張飛殿を酒に誘ったのも……」

「お二人はピンと来ていらっしゃらなかったのが可哀想な点ですが、そういうことですね。趙将軍相手にはいくらやっても徒労ということを知らなかったのが第二に可哀想な所ですが」

そう言って馬岱はやっと顔を綻ばせた。 趙雲としては、なんとも面白くない展開ではあったが。 思わずため息がこぼれるのも仕方がない。

「国を統治しようという時に内部抗争などなんて無駄なことを」

と言いつつも、趙雲も法正の口ぶりに、何やらきな臭いものを感じたのは事実である。 法正が功名心の強い男だという事も十分認識している。 しかし、誰かを落としてめてまでとは、流石に思っていなかった。それも、孔明を。

「だからこそですよ。新参の法正殿にとっては、勤続年数で負けている諸葛軍師を超えるには、建国の功労者になるのが一番早い。だからこそ食い気味にと言える速さで動いています」

馬岱は再び歩みを始めたので、趙雲もそれに従う。 奥へ進むと、微かに人の気配を感じ始める。 それでも、まだ周りに人影は見えてこない。

「……ですが、失墜というのは流石に言葉が過ぎました。優位に立っておきたいが為に、先手必勝で動いている、という所でしょうか」

「まあ、兵法の定石ではあるな」

戦を制するには機先を制するべし。

「不躾を覚悟で申しますと、劉備軍の皆さんは今迄身内ばかりの軍で政争などされてなかったのでしょう」

「まあ、一部不和などはあったが……」

孔明が軍師として迎えられたばかりの頃は、趙雲を初め諸将は皆孔明に対し懐疑的だった。 だが、それとこれとは状況が違うというのは、流石に趙雲も分かる。 かつての劉備軍のそれは、政争などと言うには程遠く、単に信用の問題だった。

「人が増え、権力が分散すると、人は争うものです」

心なしか、馬岱の声が沈む。 ああそうか、馬超はかつて同胞としていた韓遂と離間したが為に、故郷を追われたのだった。 趙雲らが鈍感すぎるだけでなく、恐らく馬岱も過敏になっているのではないか。 そうは思ったが、馬岱の心の傷を抉るような発言は憚られる。

「しかし馬岱、私はそれでも構わないかと思うよ」

代わりに、純粋な自身の気持ちを述べた。 趙雲の発言に、再び馬岱は足を止める。

「まさか」

「そのまさかだ。法正殿が我が軍の第一軍師になれば、孔明殿は成都で静かに政治に集中出来るという事だろう?」

「……そうなりますか」

「私はそれでも良いんじゃないかと思っている。あの人は多分、戦争より政治向きだろうから」

劉備も言っていた。 ガンガン攻めるのが得意な軍師じゃないと。 どこか完璧主義なきらいもあるし、仕事を任されすぎないくらいが丁度良いのではないか、とすら思えてしまう。

「…………」

しばしの沈黙の後、馬岱は大げさにため息を吐いた。

「馬岱一生の不覚。流石私などより軍師を良く見ておられる。あなたがそういう発言をすること、微塵にも予想しておりませんでした」

「なんか悪かったな」

「いえ、私の読みの浅さです。ですが、これを聞けば気持ちが変わると思いますよ。法正殿は、諸葛軍師に監視をつけております」

「――なに?」

それはなんとも穏やかじゃない。 趙雲の反応に、馬岱は微かに満足したようだが、それを表立って顔に出すほど愚かではない。

「そこまでやってるのか、あの人は。どうやって気付いた」

「左将軍府の周りを哨戒がてら散歩していたら、怪しい人影がいたので捕らえました」

それはなんとも……。 簡単に言うが、武将にするには勿体無いくらい隠密の得意な馬岱ならではだろう。 趙雲はにわかに頭痛のする想いだった。

「競合相手が気になるのは分かるが、そこまでするか。まだ国の安定していないこの時期に」

「恐らく法正殿も当初はそこまでするつもりではなかったのかもしれません。ただ、ここ数日諸葛軍師が何やらよからぬ事態に巻き込まれているようなのを察知して――」

劉備の言っていた「困りごと」だ。 劉備の冗談ではなかったことだけは、一つ明らかになった。

「私は殿から聞いたが、孔明殿は何か困った事になっているらしいな」

「そのようです」

「詳しい事は知っているか?」

「私個人としては予想できておりますが……私の口からお答えすることではないでしょう。ご本人の口からお聞きになるべきです」

「それはそうだ」

馬岱は妙に嗅ぎまわる癖と能力があるようだが、ここぞという一線は踏み越えてこない。 それが分かっているからこそ、趙雲はこの男を信用できている。

「ならば猶更急いで向かおう」

「そうですね」

おしゃべりをやめて、二人は早足で左将軍府へと向かった。

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