「……将軍?」
夜もすっかり明けて空が白み始めた頃、諸葛亮が幕舎から出てきて、第一声がそれだった。
本当に驚いたらしく、目を見開いている。
「おはようございます、軍師殿」
趙雲はすかさず挨拶をする。
諸葛亮が起きていた事は、大分前から気付いていた。
中で物音がし始めていたからだ。
諸葛亮は特に誰の手も借りずに朝の準備をしたらしいので、こうやって幕舎を出るまで趙雲には全く気が付いていなかったようだ。
幕舎から現れた諸葛亮はいつもの通りの格好で、寝起きという事を全く感じさせなかった。
髪も自分で結ったのだろうか、いつもと変わらず綺麗に結い上げられている。
ただ、冠はまだ付けていなかった。
「……な、何かあったのですか!?」
驚きが冷めた諸葛亮の第二声が、この問いだった。
今度は趙雲が驚いた。
何故大丈夫と言ったのにこの男は立っているんだと、てっきり諸葛亮には嫌な顔をされるだろうと覚悟していたからだ。
しかし実際は予測の斜め上をいった。
諸葛亮は何かあったのではと、不安になったらしい。
その口調だけで思わずこちらが驚いてしまうくらい、切羽詰まった声だった。
「いえ、特には……」
「そ、そうなのですか……?ならば何故貴方はここに?」
諸葛亮は純粋に、分からないと言った表情で尋ねた。
「警護をと、思いまして」
「そうですか……」
諸葛亮は安堵したと言わんばかりに、大きく息を吐いた。
趙雲にはなんとなく、腑に落ちない。
「何故その様な心配を?」
余計な質問だったかと言って後悔したが、諸葛亮は余り気にしている様子は無く答えた。
「いえ、何も無かったなら良いのです」
「しかし、随分と心配そうでしたので」
諸葛亮が案外気にしていない様だったので、趙雲は更に続けた。
「……夢を、見たので」
「夢?」
諸葛亮の口から夢とは、なんとなく意外な気がした。
しかし諸葛亮だって一人の人間である以上、当然夢だって見る。
「夢に……貴方が出て来ました」
「え……わ、私がですか!?」
これまた予想外の答えである。
「だから虫の報せか、予知夢だったのではないかと思いました……」
ここでまた諸葛亮は大きく息を吐いた。
そしてそこでやっとハッと気付いた様に、趙雲を見た。
睨む、とまではいかないが、険しい表情には違いない。
「昨夜、警護は要らないと殿には申上げた筈ですが」
「それは……わ、私の一存で立っておりました」
「貴方の?」
諸葛亮の顔は怪訝なものに変わった。
趙雲は取り繕う言葉もみつからないので、とりあえず黙っていた。
暫くは諸葛亮も趙雲を鋭い眼光で見ていたが、ふと何か気が付いたらしく、一瞬目を見開いた後、目を伏せ思案する様な表情でぽつりと呟いた。
「……貴方が此処に立っていたから、貴方が夢に出て来たのでしょうか……」
自問するような呟き。
貴方とは言いつつ、趙雲に向かって言った風でもない。
だが、その呟きは勿論趙雲には届いていた。
そこで趙雲も気が付いた。
――私が軍師殿の事を考えていたから、軍師殿の夢に私が……!?
古来より、相手を強く想えば、夢の中で相手に逢いに行けると信じられてきた。
つまり、夢に誰かが出てきたら、夢を見た方がその人物を想っているのではなく、向こうがこちらを想っているという事になる。
ちなみに、これは恋愛関係に限った話ではない。
家族や友人関係にでも適用されるし、相手の消息を心配するとか相手の無事を祈る、と言った場合にも使われる。
趙雲は間違いない、そのせいだと思った。
趙雲は確かにここに立っている間中、主に諸葛亮の事を考えていた。
趙雲がここで立っていた事に気付いたら、きっと諸葛亮は怒るだろう……その後の対処はどうしようか、等と考えていたのだ。
「申し訳ありません」
趙雲は頭を下げた。
己が想いのせいで諸葛亮の夢に現れてしまったとしたら、なんとも恥ずかしいし、申し訳ない。
「は?」
「勝手に軍師殿の夢に現れてしまいました」
趙雲が言うと、諸葛亮はなんとも複雑そうな表情をした。
「別に、謝る事では……」
「いや、謝らせて下さい。あの、私夢の中で何か失礼な事をしなかったでしょうか?」
諸葛亮は一瞬ハッとした様な顔をしたが、すぐにまた複雑そうな表情に戻った。
趙雲に対し苛ついているわけではないようだが、かと言って気の良い感じでもなかった。
諸葛亮の方も、なんと返したら良いか決めあぐねているらしい。
夢に出てきてごめんなさい、と突然言われても困るのは当然だが。
「別に……」
問われてから少し間を置いた諸葛亮の返事は短いものだった。
「真ですか?」
「ええ、はい」
趙雲はなんとなく、間が空いたのが気になった。
「具体的には何をしていたのでしょうか、私」
諸葛亮の表情はさらに困惑の色を増した。
「夢の話ですので、具体的にと言われましても……」
「覚えている限りで良いのです」
趙雲が更に問い詰めると、いよいよ諸葛亮の顔は困惑げだ。
何と言ったものか考えているらしい。
諸葛亮が案外真面目に取り合ってくれているのは、意外だった。
「私の前に現れて、そして……去って行かれました」
「……それだけ?」
諸葛亮は頷いた。
「何か話されてもいません」
一言も発せず、諸葛亮の前に現れて、そして去った。
一体何のための登場だったのかと展開の整合性を問いたい所ではあるが、往々にして夢とはそんなものである。
夢に秩序だった物語を求める方がおかしい。
それに、何も言わずに去って行ったとなれば、なんとなく予兆的でもある。
「ならば、良かったです……」
趙雲はホッと息をついた。
諸葛亮の方もやっと解放された事に安堵しているらしい。
「将軍、私はもう大丈夫ですから次は将軍がお休みになられて下さい」
「え、私は……」
「一晩中立たれていたのでしょう?殿には私から申し上げておきます故、お気にせず」
「はあ……」
正直、休みたいというのが本音だった。
趙雲も諸葛亮を迎えに行ってからロクに休んでいない。
劉備もそれを理解しているから、怒りはしないだろう。
「では、そうさせて頂きます」
ていよくあしらわれた感はあったが、背に腹は変えられない。
趙雲は諸葛亮に一礼してから、趙雲にあてがわれている幕舎へとさがった。