崑崙の島 崑崙の島―1


呉帝の孫権が亶州へ船を派遣する事を提言したのは、黄龍2年の事だった。
亶州とは、呉の国土に面した海の向こう、空気が住んだ晴天の日になんとか地平線に視認出来る程度の距離を介して、ぽつんの霞の様に浮かぶ島の事である。
呉の民というより、中華の人間はその島を亶州と呼んでいた。
人が住んでいるかも分からないが、あれほどの大きさの島だ、きっと先住民がいるだろう。
中華の人間は一様にそんな風に決め付けていた。
近いようで遠いそこは、海岸に暮らす者にとっての一つの目標だった。
もしかするとそこは、年中暖かな陽気で、様々な作物が実る豊かな世界かもしれない。
自らの境遇が厳しいほど、人々の空想はより濃く、きらびやかなものとなっていく。
やがてそれは、皆にとっての幻となった。
海の民は皆、亶州を遥か想う。
皆が見る幻は、形を持つ。
亶州は次第に、人が住む豊かな島なのだと言い伝えられる様になった。
呉の民ならば、余程内陸に住む者ではない限り、亶州の事を知っている。
呉の民の一人である孫権が、亶州を望む様になるのは、至極当然の事だったのかもしれない。
今やもう若くない孫権は、ずっと焦がれて来た亶州に、今こそ掴まんと手を伸ばそうというのだ。

陸遜には、その孫権の考えが理解できない。
国土を拡げたいのなら、向かうべきは南だ。
山越他異民族が雑多と暮らす南は、今なお拡大の余地がある。
国土に加入して長くない交州も、まだまだ孫家の支配が曖昧で、その全体を把握出来てはいない。
交州の整備を見直すだけでも、かなりの耕地や賦役が望めるだろう。
あえて危険な海路を選択する必要は無い。
人口の補完……要するに人の移住を望んでいるのだとしても、船で連れてこれる量などたかが知れている。
それも、もし転覆などしようものなら逆に損失ばかりの憂き目を見る羽目になる。
だから、陸遜は理解できない。
何故かくも孫権が亶州に拘るのかと。

無論、陸遜も呉の民だ。
呉――国名としてではなく地名の――人間としては、孫家よりもよっぽど陸家の方が根は深い。
そもそも呉は、陸家一帯の勢力が及ぶ地域だったのだ。
呉は海に面する。
幼い頃から亶州を視て過ごし、言い伝えも勿論耳に慣らして大人になった。
亶州に憧れを抱いた時期も、ある。
しかしそれは所詮こどもの見る夢だ。
良い大人の、それも国を動かす立場の人間が耽る夢ではない。
果てなる島へ大船団を送るなど、実現したのは秦の始皇帝くらいなものだ。
しかし中華を統一した秦とは違い、こちらはしがない地方領主の身である。
国だ皇帝だと嘯いてはいるが、この事実ばかりは認めざるを得まい。
始皇帝とは、同じ皇帝とはいえ立つ場所が違うのだ――こう内心思っているのは、陸遜だけではあるまい。
あちらはどうなのだろうか、と西を仰ぐ事もある。
漢を継承し、帝を奉ずる蜀――というより、その丞相の諸葛孔明。
彼の人は本気で蜀こそが中華の正統などと信じているのだろうか。
陸遜には、その心情を察するのは難しい。
それはともかく、今は亶州の件だ。
どうしたら孫権を留められるのか、近頃そればかりを考えている。
こんな時、張昭や虞翻といった、今は亡きうるさ方が思われてならない。
こんな時にばかり思い出される故人は一体どんな心境なのだろうかと、陸遜は静かに失笑した。



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「陛下は夷州と共に、亶州を探させるおつもりだそうだが」

「ええ、勿論存じておりますとも全j殿」

陸遜は、たまたま宮中の廊下で全jに出会った。
陸遜より一回り若い、しかしどこかくたびれた印象のある武将である。
孫権の娘の、孫魯班の夫であるため、陸遜といえど全綜に対して大きな顔は出来ない。
それも全家は、呉でも有数な名家である。
勿論陸家も全家にひけを取らない血統ではあるのだが。

「陸遜殿は、どう思われますか」

「どうって……、亶州への船団派遣の事で?」

「ええ、はい」

「……正直、賛同は致しかねますな。あまりに危険度が高過ぎる」

「……やはり陸遜殿もそう思われて」

「陛下に直談判する他無いかと、今は少し考えています」

「……実は私、今その件で陛下にお目通りを致したばかりなのです」

「えっ」

陸遜ははたと顔を上げて目の前の男を見た。
では謁見から戻る最中であったのか。
陸遜の方は逆に孫権に会いに行く所だったのだが、それならば途中で鉢合わせするのも当然だろう。

「陛下には何と?」

「……ハッキリ、諫言させて頂きました。今は亶州・夷州に兵を送る時ではないと」

それは思い切った事をしたものだ。
孫家と言えど蔑ろには出来ない全家だからこそ出来る真似かもしれない。

「それで、陛下は」

「我が国の領土拡大のため、また我が国が長年頭を悩ませてきた人口の問題を解決出来るのかもしれぬのだぞと、お叱り頂きました」

「はあ……」

その主張は分かるようで、分からない。
確かにそのメリットはあるが、それにも増してデメリットの方が遥かに大きい。
よしんば夷州亶州を制圧出来たとしても、飛び地の支配が容易に進むわけがない。

「……思うに、陛下の目的は領土や人口では無いのではないかと」

「……と言うと、あれですか。亶州の伝説の方が目的だと?」

全jは苦虫を噛んだ様な表情で、ゆっくりと頷いた。
亶州の伝説――
中華の東の向こうにあり、そこには不老不死の仙人が住んでいると。
その島は『山海経』曰く、崑崙の島と言い、人の生死を司る不老不死の仙人西王母が暮らしているのである。
かつて不老不死を望んだ秦の始皇帝が、方
士の徐福に探索を命じて、航海をさせた。
徐福は三千人の処女童貞の若者達を率い海へ出たが、以後二度と戻る事はなかった。
徐福が崑崙の島へ辿り着いたのかどうかは分からない。
しかしそれ以降、崑崙の島は仙人が住む幻の島と民間の間にも広まり、皆に信じられるよいになった。
そしてそれがいつか、海の果てに見えるか見えないかの蜃気楼の様な亶州に、崑崙伝説を重ねるようになったのだ。

「しかし、陛下に限ってそんな事は」

孫家は勇猛で、虎の様な激しい血統だ。
それが黴臭い道士の様に不老不死を追求するなど、イメージに合わない。
事実、孫堅や孫策も激しくその若い命を散らせたのだ。
故に孫権も、既に長生きはしてきたとは言え、父や兄に倣いたいのではないかと勝手に思ってきた。

「私はそうは思いません。むしろ、お二方の死を目の当たりにされたからこそ、死というものがあまりに呆気ない事を、ご存知なのだと思います」

全jの言い分は、陸遜には理解出来ない。
確かに孫堅や孫策の死はあまりに突然で早すぎるものであったが、死は誰の傍にも存在している。
孫権だけが、死を目の当たりにしてきたわけではないのだ。
誰にとっても死は恐ろしく、唐突で、予見が出来ない。
決して孫権だけが特別ではないのだから。

「私には、理解しかねます」

「人の想いは千差万別。この私も事実陛下のお心を理解しているわけではありません」

「貴方は陛下の不老不死を望むお心を分かっておられるではないですか」

「それすらも私の憶測に過ぎません。それに――私には、不老不死を望む人間の心は分かりません」

目の前のやや老け顔の男は、視線を当てもなく宙をさ迷わせた。
陸遜と相対している人間には、こうした仕草を見せる事が多い。
お前の瞳が強すぎるからだ――と、以前一度朱然に言われた事がある。
良く分からないのだが、簡単に言えば時折怖い顔をしているという事らしい。
表情がきついとは、若い身空からしばしば言われて来た事なので、自身も人前ではかなり表情を繕うくせをつけてきた。
しかしこうして私的な場面では、つい素直に顔に出してしまう事がある。
こんな込み入った話の席ならば尚更だ。

「全j殿は、不老不死というものを恋い焦がれる気持ちをお持ちでないのですか」

「老いるというのは嫌なものですが、だからと言って不老不死になりたいかと言われたら、私は……怖いです」

全jは直言は避ける形で問いに答え、そして続けた。

「同じ問いをされたら、貴方はどうですか?」

問われた陸遜は少し考えるように首をかしげ――、考えるように見せ、淀みなく答えた。

「嫌ですね、私も。永遠というものを、我々は知りません。知っている者はいない。知らないものは怖い。私は臆病なもので」

「貴方が臆病なわけではありません。私とて同じですよ。不老不死に一度なってしまえば、死にたいと願っても死ねないのか。分かりませんからね、それは恐ろしい」

「……それだけではない。私はそもそも不老不死というものが底知れぬ暗闇の様で、憧れる気持ちが持てませんな」

「はあ」

全jが不思議そうに目を見開いた。
陸遜自身も、自分自身の考えが上手く表現できず、言葉を探している。

「なんと言えば良いか、不老不死は突き当たりです。前にも後にも進まない。生きている人間は、一瞬一瞬が違う時間を進んでいる。変化があります。故に暖かい」

我ながら何を言っているんだと思いつつ、自分がこんな詩的な詞を並べ連ねている事に、陸遜は内心感心していた。
陸遜は普段、詩や賦を詠む習慣は無いのだ。

「可笑しな事を申し上げましたな」

対する全jは、馬鹿にした態度もなく、思いの外真面目に答えた。

「いえ、良く分かります。不老不死になるという事は、止まった時間に生きているという事なのですね」

「そう、良くお分かり下さった」

「刹那、でしたかな」

「セツナ?」

不思議な音感が、陸遜の耳をくすぐる。
陸遜の知らない単語だった。

「ブトの者達の使う言葉だそうです。私も良く知らないのですが、人間が生きる時間は刹那という極々短小な時間の連続したものなのだそうです」

「へぇ……」

ブト……仏教徒の言葉が出てくるとは思わなかった。
陸遜は、ブトの者達の事は良く知らない。
不勉強だと、自分を恥じた。
知らなかったが、全淙は仏教徒なのだろうか。

「不老不死の者は刹那の積み重ねではない、別の時間を生きているのかもしれませんな。それが仙人になるという事なのか……」

陸遜の追及に、全jは頭を振った。

「私にもあまり理解出来ない問題です。お知りになりたいのであれば、直接話を訊きに行ってみては如何ですか」

「全綜殿はブトを信仰しているわけではないのですか?」

「私?いいえ、違います。仏教をかじった者から小耳に挟んだ程度の事です。健業にはブトの者が多いとはいいませんが、それなりに多い……」

確かに、健業にはブトの者が一定数存在している。
邪淫排斥を唱えた曹操の流れを受けてか、か、あまり宗教が手厚く扱われない魏とは違い、ここ呉では新興宗教の仏教なども迫害される事は少ない。

「ブトの事は私も良く知りませぬ。この機会に少し知識をつけるのも良いかもしれませんな」

そこで、陸遜は全jと別れた。



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