崑崙の島 崑崙の島―2


今より数十年前、窄融という武将がいた。
初めは徐州刺史陶謙に仕えたが、曹操の徐州虐殺の際江南へと逃れて来た。
窄融は野心家で残虐な男であったが、同時に仏教の普及に尽力した。
大寺院を造り、仏教徒を集めたのである。
中華における仏教の流行はこの時からだと、後には言われるようになる。
窄融は一時、秣陵(今の建業)の南に軍を置いた。
そのため、今もなお建業周辺に位置する地域には仏教徒が多い。
孫権自身もその影響を受けて、仏教徒を保護しているとも聞く。
しかし陸遜自身はあまり仏教……というより宗教染みたものに興味が無く、当然仏教徒との関わりをもった事も無かった。
陸遜にとって、言うなれば未開の分野である。
しかしブトの教えを伝える役目だという僧という人間は、信者以外の人間にも比較的親切だと聞いていた。
直接いけば話をしてくれるだろう、そう考えて一人仏教徒が多いと言われる村へ足を運んだ。
健業の都にも、当然仏教徒はいる。
だがあえてそれを避けた陸遜の心境は――陸遜自身にも良く分からない。
誰かに見られたくないという気持ちが一番だろうか。
なんとなく、仏教に興味を持ったのだと他人から思われるのは嫌な気持ちだった。
陸遜が訪れた村は田舎だがどこか整備された印象のある場所で、そこに住む人間の人柄が推し量れるようだ。
殺伐とした雰囲気の無い、長閑な村。
ブト信者は決して多数派なわけではないのだが、この村では平和が良く守られているようである。
良い場所だ……陸遜は素直にそう思った。

村人に尋ねると、すぐに僧のいる場合を教えてくれた。
信者が集まり、教えを説いてもらう専用の建物があって、僧という者はそこで普段から過ごしているのだという。
先に流行った太平道とは、少し趣が異なる。
ブトの民は、基本的には移動というものをしないらしい。
陸遜は手土産がてら、途中で酒を買った。

「ご無礼つかまつる」

陸遜は酒の入った瓢箪を片手に、件の場所へ向かった。
村全体は決して豊かではないなかで、その建物は目を引く程に大きくて立派だ。
とは言っても都の貴族達の邸宅に比べれば小さなものだが、村の中では一番大きいだろうか。
それでも贅沢を思わせるものはなく、あくまで厳かな雰囲気が漂う。
ブトは中華の南に位置する国から入ってきたのだというが、そのせいなのかどこか異国的な情緒が漂っている。
家屋を囲う土壁は周りとそう変わらない造りであるのだが、壁に囲まれた内部――建築物も、庭の造りも陸遜の感覚には馴染まない。
はっきりと異質なのではないが、妙にザワリと陸遜の肌をぬぐう。
異界の庭は、ひどく静かだった。,br> 外界を遮断する壁もそうは高くはなく、外界との距離もさほど離れていない筈なのに、ここは冷たい沈黙に包まれていた。
故に、陸遜の問いはよく響いた。
陸遜が抱える瓢箪の中で酒が踊る音が聞こえる。

「はい、はい、何ですかな」

陸遜の声が消えてしばらくして、人影が庭の奥から現れた。
門からまっすぐ奥に見える家屋ではなく、庭の植木の方から現れたのには、陸遜も少し驚いた。
植木の整備でもしていたのだろうか、着物の裾が汚れている。
しかし本当に陸遜の目を釘付けにしたのは、そんな土の汚れなどではない。
その特異な頭髪である。
いや、頭髪と表現するのはおかしいだろうか。
その頭には、一片の毛髪も無いのだから。

「あ、貴方がここの……」

「いかにも、主であります」

男は、掌を合わせる不思議な挨拶をした。
つられて陸遜は、拱手を返した。

「貴方の様な貴人がこの様な場所へ何用でございましょう」

浅黒く焼けた男の顔の中で、白い目だけがギョロリと目立つ。
精悍な印象な反面、身体はひどく痩せている。

「私が貴人だと?」

陸遜は目立たぬよう、あくまで粗末な衣服に身を包んで来た。
身分は分からぬよう、最善を尽くしたつもりだったのだが……。

「一目瞭然ですよ、貴方の手は労働者のそれではございませぬ。……剣を握る手でございますな、妙な場所にタコが出来ておられる」

「ほう、中々の洞察眼をお持ちだ」

「貴方の様な血の臭いのする御方が何用なのです?ブトへの信仰に興味がおありなのでしょうか」

「信仰というよりは思想ですかな。ブトは独特の死生観を持つのだと聞きまして」

「死生観?人を斬る運命に嫌気がさされたのですかな」

男はどうも軍人に好意を持っていないのか、それとも陸遜をブトに勧誘したいのか、話を折って来て困る。

「私は当分戦稼業から手を引くつもりはありませんが。私はただ、セツナという言葉の意味が知りたいだけなのです」

「刹那?それだけの為にわざわざ参られましたか。いやはや、ご足労な事でございます」

男は再び、あの例の手を合わせるおかしな仕草をして、一礼してみせた。

「刹那とは、我々人が生きる時間の最小単位の事でございます。人間……、いや人間に限らず命ある身は全てこの短き刹那の時間を積み重ねの上に生きておるのです」

「時間は繋がっているようで、繋がっていないと?絶えず更新されているわけなのですか」

「命ある身の存在は、その刹那の時間毎に新たに生まれ、繋がっているように見えて違う命を頂いているのです」

「はぁ……」

分かるような、分からないような。
とにかく、人間の生は限りある時間の単位内にのみ、存在しているという事のようだ。
人間の生は有限であり、不老長寿というものは存在しないと、そういう解釈で良いのだろうか。
陸遜は、自分が求めていた答えが与えられたようでスッキリした。
不老長寿の否定、その為にわざわざこんな場所にまで足を運んだ。

「面白い考えだと思います。永遠という物はやはり存在しないのですね。人が求めるものではやはりない――」

「我々人間界には永遠は確かにありませぬ。しかし、極楽浄土の釈迦は永遠を生きておられます」

人間にあらざる不死の存在。
中華の神話でいう、西王母がそれにあたるのだろうか。
そういう存在、存在を信じる思想はやはりどこにでも存在する。
それは良いのだ。
その存在に自分を重ねようとする行為が、陸遜にとっては禁忌に思われる。
いや、禁忌というよりは、純粋なる嫌悪だろうか。
それを望む事は、実に浅ましい。

「貴殿方はそのシャカなる者を信仰しておられるのですね」

「半分はそうで、半分は違います。釈迦は我々にとって指標となるべき素晴らしき御方には御座いますが、釈迦そのものは我々と変わらぬ人間にございます」

「……?」

「釈迦は元々人間として生を受けましたものを、自身の悟りにより人間の枠を超えられたので御座います。釈迦と同じ存在には、我々の皆がなれる可能性を有しておるのです」

「――――」

「我々ブトの民の最終目標は、釈迦と同じく悟りを開き、浄土たる捕陀落に行く事なので御座います」

「それでは――」

不老不死を求める孫権と、同じではないのか?
いや、きっと、細かく言えば違うのだろう。
しかしブト信者ではない陸遜には悟りというものがよく分からない上に、最終的にいきつく場所が一緒ならば、それは即ち同義足り得る。

「捕陀落は、西の海の遥か遠い遠い島にあるとされております。悟りを開いたものは、死んでそこにいけるのだといいます」

――崑崙の島ではないか!!

陸遜は俄に頭を強く殴られた様な感覚に襲われた。
あまりの衝撃にほんの一瞬、目の前が白く霞む。

「大丈夫でございますか?急に顔色がお悪くなられたようですが」

男は、心配そうに陸遜に歩み寄る。
しかし陸遜は、その行為を遮る様に手で払った。
近付かれたくない。
陸遜にとって、男は急に得体の知れないおぞましいものに変わった。
この男から一刻も早く離れたい。
いや、この場所から離れなくてはならない。
この村全体が、ブトの信仰に覆われているのだから。
胸が早鐘を鳴らす。
逃げなければ――、耳の奥で誰かが叫んでいる。

「……悪いがこれで失礼する」

陸遜は、ろくに男の顔も見ずに、門の方へ急いだ。
男は随分驚いた様だが、陸遜をとめようとはしなかった。

「興味がおありならば、いつでもまたお越しなされ。釈迦の教えは、何人をも拒みませぬ」



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