陸遜は脇目も振らず、一心に駆けた。
これほど馬を飛ばすのはいつ以来かというぐらい、前へ前へとひたすらに進む。
もう決して若いとは言えない陸遜は、ここ数年この様にがむしゃらに駆けるような真似はしていなかった。
そんな事も忘れるくらい、駆ける事に集中していた。
建業の城内へ入っていた事も、ろくに認識していなかった。
しかしそんな無理をすれば、すぐに馬に限界がくる。
そして、同じく陸遜の体力にも限界があった。
そこでようやく陸遜は馬を降りた。
もうこの馬は、一晩休ませないと無理だろう。
自身の息を整えるためにも、陸遜は徒歩で帰路をとる事にした。
見渡せば、陸遜は人通り多い市街地にいた。
昼過ぎの比較的往来が静かな時間ではあるが、こんな路を馬で疾走するなど正気の沙汰ではない。
事故が怒らなかったから良かったものの、随分危険な事をしたものだ。
もう分別のある年であろうに情けないと、陸遜は自悔した。
「ああ、本当にこんな所にいるではないか」
陸遜が馬を曳いてゆるゆると歩き始めてから幾ばくかした頃、後ろから話しかける者がある。
背後には小振りな馬車が一台、その馬車の入り口からは陸遜の良く見知った顔がこちらを見下ろしていた。
「これは……奇遇ですな朱然殿」
小柄で童顔なきらいのある男だが、流石にこの年になれば些かの威厳も出てきただろうか。
それでも陸遜は、この男が己より数才年長だという事をたまに忘れてしまう。
外見的な意味もさることながら、朱然は常に元気が良く溌剌としていて、若い頃は幼いという意味で年下の様に思われたその点は今の年には若々しいという風に見られている。
年をとって随分意欲が無くなったと自分で思う陸遜にとっては羨ましく、そして単純に元気が貰えるという意味で有難い存在だった。
簾の隙間からのぞく朱然は、私事の時間なのか鎧も礼装もしておらず、比較的粗末で目立たない装いだった。
背が低い事を補うためなのか、朱然は普段はどちらかと言えば派手で存在感のある装いをしている事が多い。
そのためこうして地味な格好をしていると、なんだか拍子抜けしてしまう様な印象がある。
勿論そんな事は本人に言いはしないが。
「奇遇ではない、お前に良く似た者が全速力の馬でこの道を駆けていったと聞いたものだから、まさかと思って追っていたのだ」
どうやら陸遜の顔を知る者が見ていたらしい。
あれだけ無茶な事をしていたのだ。
目立ってしまったというのは自業自得なのだが。
「それがどうして、本当にお前じゃないか。どこぞの無頼者ならともかく、お前の様な者が天下の往来で爆走とはどうした事だ。それに、らしくないぞ」
「いや、反省はしています。少し急いでいまして。つい……」
「馬が潰れる程の急ぎの用とは何か知らんが、乗れ。送ってやろう」
「何か用があるというわけでもないのですが……」
「はぁ?要領を得んな。とにかく乗れ。家まで送ってやるぞ」
せっかくの好意を断るのも気が引けるし、正直若くない陸遜には徒歩での家路は辛いものがあったため、素直に馬車に乗り込んだ。
「感謝いたします、朱然殿」
陸遜が腰を落ち着けた頃、ゆっくりと馬車は進み始めた。
壁を隔てただけで、随分と街の喧騒は遠くなる。
「やや、酒を持参での用事とは益々分からぬな」
朱然が陸遜の腰に下がった瓢箪をみて言った。
土産にと買った酒だったが、結局渡す事なく帰ってしまった。
実際、陸遜は指摘されるまで酒の存在を忘れていた。
「もう用は済んだのです。酒は渡し忘れましたが……どうです、一緒に飲みますか」
「おい陸遜、一体どこに行っていたのだ。さっぱり見当がつかぬ」
「……ブトの所ですよ」
「ブト?」
陸遜は、訪問の目的から、訪問先であった事、一切を朱然に話した。
「不老不死ねぇ……」
朱然は、瓢箪の酒を傾けながら言う。
「亶州に執着なさる陛下のご様子には俺も少し違和感を感じてはいたがな」
「正直に言ってしまうと、私は陛下に少し失望と侮蔑をしていました」
とんでもない不敬罪だが、朱然はきっと他言はしない。
それでも、陸遜は無意識に声を下げた。
「……まぁ、その件に関わらず最近の陛下のご様子には参っているが」
「朱然殿」
「お前も同罪だろう、陸遜。我々の仲ではないか。たまには、腹の内を語りたいものだ」
朱然はカラカラと笑う。
確かに陸遜と朱然はもう長い付き合いで、そして周りを見渡せばもう同輩はほとんどいない。
陸遜と同じくらいの年齢で、地位や身分が相応なものは、朱然くらいなものだった。
そういう意味で陸遜にとって朱然は、かけがえのない話し相手である。
朱然の方も、きっと同じ様に思っている事だろう。
「陛下ももうお年だ、我々と同様にな。不老不死に興味を持つ頃ではあるかもしれんが」
「ですが私には、陛下のお気持ちは理解できませぬ。不老不死など―」
「そういう話に興味を持つのは、個人の自由ではないのかな、陸遜」
「っ……」
「お前が嫌悪を示すのと同じ様にな。そして、人である以上持ちうる欲だと俺は思うがな」
朱然が、酒の入った瓢箪を差し出す。
陸遜はそれを憮然とした表情で受け取った。
朱然の反応は、少し意に沿わぬものであったから。
返ってきた瓢箪は当初よりだいぶ軽くなっている。
残り少なくなった酒を一気に仰ぐが、一息に飲み干せる量ではない。
咽が俄に、カッと焼けつく。
「貴方もやはり、そういう類に興味を持たれるのですか」
詰問する口調であったが、問うた陸遜の顔はどちらかといえば哀願というに近い。
ああ、貴方だけは――と。
「どうだろうな……まぁ俺も人間だし、興味が無いといえば嘘になるが……。不思議な事に、この歳に成ると昔の事が思い出されてならぬ」
馬車が角を曲がる。
それにつられて、二人の体も傾ぐ。
陸遜の手から滑り落ちた瓢箪が、コロコロと転がって壁にぶつかる。
零れるほどには酒は残っていなかった。
「先に死んでいった者達がな。こうして酒を酌み交わす事もあったなと……」
朱然が壁際の瓢箪を掬い上げる。
「酒を飲む相手がいるというのは良い事だ」
朱然が小さく、瓢箪を仰ぐ。
そしてすぐに、陸遜に手渡した。
「共に苦労をわかち合った者と飲む酒が一番旨いと、俺は思う。疲れて、それこそ死ぬ想いをして、同じ線上を乗り越えた戦友との酒は格別だ。こればかりは、泰山に棲む仙人道士には味わえまい」
零れる様な笑み。
ああ、これだ――と陸遜も微笑む。
瓢箪は先程よりもずっと軽い。
逆さにしても、口内に落ちてきたのはほんの一滴だけだった。
だがそのひとしずくが、こんなにも愛おしい。
「旨い」
「ああ、そうだな」
二人の視線が合わさると、どちらともなく笑い声があがる。
次第に馬車は笑いに満ちる。
(このひとしずく。このひとしずくは何千年生きようと、得られるものではない)
〔終〕
あと仏教の刹那や捕陀落の概念なんかも実際の所私も良く理解していません。
ただ神話とかってどれも似た要素があったりしますよね…不思議と。
あとブトとカタカナ表記してますが、浮屠の事です。
陸遜と朱然だと陸遜のが官位上なんですが、二人はクセでこう話してます。
朱然も流石に人前では敬語なんでしょう。