軍師殿と私 繰り返し見る夢-2


空の革袋をひとつ持ち、いそいそと車から降りると、例の鼻をつく異臭が襲ってきた。
車内からは母が叫ぶ声が聞こえたが、私は無視して焦土と化した大地へと久方ぶりに足をつけた。
先程より、腐臭が強まったように感じる。
同時に遠くから水の流れる音が聞こえる。
恐らくこの近くに河があるのだろう。
腐臭も、恐らくそこからしているものと思われた。
見たわけではないが、予想がつく。
死体が河に所狭しと浮かんでいるのだろう。
火に焼かれて、逃げてきた人々かもしれない。
上流で死んだ死体が、ここまで流れてきたのかもしれない。
人間以外のものもあるかもしれないが、まとめてそれらは死体だ。
焦げ墨になってから落ちたのでなければ、恐らく水を吸ってブクブクに膨れた水死体になっているだろう。
女は俯せに、男は仰向けに。
だがそれらは元の身体の線が分からなくなるほどに、ふやけててしまっているだろう。
なんにせよ、その様な河の水は飲みたくない。
どこか他に、井戸がないか探す。
泉などでも良いが、この辺りは市街地であったらしいので、そんなものはないだろう。
井戸にも毒が入れられている可能性がなくはないが、曹操軍は市民をその場でただなで切りにしている。
わざわざ井戸に毒を入れるような丁寧な真似は、していないと信じたい。
死体が浮かんでいる様な井戸もダメだ。
流れている水ならともかく、井戸水の様な溜まった水に腐乱物が入ると、それだけで水が毒になる。
戦ではわざわざ敵地の井戸に排泄物や腐乱物、主に動物の死体だが……を入れる事もある。

引き続き水を求めて、歩く。
暫く歩くと、大地の向こうに小さな集落の焼け跡が見えた。
あそこになら井戸があるかもしれない。
歩を速めた。
短い歩幅で必死に歩くせいで、息は上がる。
それでもようやく辿り着いた集落は、他の場所に比べればいくらか被害を免れていた。
住居の形も、だいぶ残している。
住人は既に逃げたあとだったのか、集落は不気味なほど静まりかえっている。
むしろそれは都合が良いと、井戸を探す。
大抵ならば集落の中心にあるはずだと考えて、ずんずんと中へ入って行くと、すぐに目当てのものは見付かった。
井戸の中を覗く。
おかしな物は何も入っていない。
一度、水を汲んでみる。
桶の水を嗅いでみたが、特に異臭はしない。
試しに少し口に含んでみても、おかしな味はしない。
飲めそうだ。
再び水を掬い、持ってきた革袋に注ぐ。
予想はしていた事だが、重量は先程までの比ではない。
子供が持てるギリギリの重さだといえよう。
その革袋を肩に担ぎ上げ、ゆっくりと歩き出す。
歩はふらふらと軸が定まらず揺れて、見るからに頼りない。
往路もかなり長く感じたが、復路は更に長くなりそうだった。
長いため息をついた……その時、気付いた。
足音。
人の声。
間違いなく誰かいる。
誰かが近づいて来ている。
一気に全身から血の気が引いた。
確かにさっきまでは何の気配も無かったはずだ。
何故だ何故だと繰り返しているうちに、人の気配は着実にこちらへ近付いて来る。
この様な無人の集落跡に、一体なんの理由があってやって来たのか。
逃げなければ――!
理屈ではなく、そう思った。
全身を嫌な予感が襲う。
しかし子供の足……走って逃げられる距離などタカが知れている。
とりあえず、建物の物陰に隠れてやり過ごす他ない。
遮二無二構わず、身を潜める場所を求めて駆け出した。
その時――

ドサッ。

「!?」

しまった!!
肩から落ちた革袋が盛大な音を立てて、地面に落ちた。
革袋の周囲にはもうもうと砂埃が巻き上がっている。
革袋は重さは勿論、体積もそれなりのものだ。
その革袋が地に落ちた衝撃は予想以上に大きく、私を驚かせた。
問題なのは砂埃などではない。
音だ。

革袋が地に落ちた瞬間、思いがけないほどの大きな音が出た。
無論それは普段ならば街の雑踏に掻き消えてしまう様な程度だが、無人の寂れた集落跡の中では、思うよりも高く響いた。
まずい――一瞬血の気が引くのを感じながら、直ちに革袋を回収する。
一度手から離れたそれの重さはやはり変わらず、咄嗟には持ち上げられない。
その間にも、人の気配は段々とこちらへ近付いてくる。

「何か今音がしなかったか?」

足音に紛れて声が届く。
恐れていた事態が起きた。
今の音は、向こうの耳にも届いていたらしい。
遠く聞こえてきた声は、男のもの。
年齢は定かではないが、あまり若くも年寄りでもない感じだ。
更に血の気が引くのを感じだ。
壮年の男がこんな場所へ何の用だというのだ。
脳裏の片隅でそんな事を考えながら、やっと肩に戻った革袋を抱えて、走り出す。
走れば当然、足音がする。
それでもみつかる危険性と秤にかけて、一刻も早くどこかへ隠れる事を選んだ。

「人の気配がするな」

男の声は、すぐ向こうの路地の裏から聞こえてきた。
絶望的なほど、近い。
それでも間一髪の差で、角を曲がりきった。
角に入るのが一歩遅かったら、見付かっていた。



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