「孔明っ!?」
俄に自分の字を呼ばれて、私は一瞬のうちに目を覚ました。
突然様変わりした視界に、頭がついていかない。
私は暫しの間、今己がどんな状況に置かれているのか、理解できずに呆然とした。
しかし、目の前のこちらを心配そうに覗き込む顔を見て、ようやく理解がおいつく。
劉備玄徳――私の大切な、主君。
「孔明、大丈夫か?寝ながらうなされていたが……」
「私は、眠って……いたのですか」
目をこすり、少しばかり記憶を辿る。
そうしてやって思い出す。
そうだ、私は宴の席にいたのだ。
宴がどういう理由で催されたものだったかは、忘れた。
いつもの如く、下らない理由であった事だろう。
その中で私は、特に誰と杯を酌み交わすわけでもなく、ただボーッと右横に座る劉備様の席を見ていた。
私と違って、劉備様の元へは、酌をしに来る人が絶えない。
劉備様もその一人一人に親しげに声をかける。
私はそんな様子を、ご苦労な事だ……とただ、眺めていた。
次第に目蓋が重くなってくる。
ここの所ろくに睡眠を摂っていなかった為か、こんな場所にも関わらず睡魔に襲われた。
そして私はそのまま、座ったままの体勢でつらつらと眠りの淵に沈んでいったらしい。
この様な騒がしい場所で良く……と思い、苦笑するしかない。
見渡せば、私が眠りに落ちる前より宴の席は幾分か落ち着いていて、皆思い思いに酒と肴を楽しんでいる。
あれだけ劉備の周りを囲んでいた人影も、今は見えなかった。
「申し訳ありません、寝不足だったようで」
「いや、良いんだ。しかし疲れてるんだろうな。辛そうな顔で眠っていたぞ」
「それは……」
夢の、せいだ。
ただの夢ではない。
あれは確かに昔私が体験した、過去――。
「悪い夢でも見ていたか」
私は劉備の言葉に小さく頷いた。
「いつも見る悪夢なんです」
「悪夢をいつも見るとは、そりゃあ災難だなぁ……どんな夢なんだ?」
「……昔の光景です。私がまだ幼かった頃の……」
劉備様はその言葉だけで察して下さったのか、それ以上は詮索してこなかった。
徐州での事は……、きっとあの場にいた皆にとって悪い記憶として刻み付けられているのだろう。
自身、その時の徐州にいたらしい劉備様なら、言わずとも分かって下さる。
「ならば、起こして良かったな」
「……ありがとうございます。でも、最後は救いのある終わり方をするのです、いつも」
「ほお?」
「最後はいつも……幼い私を助けてくれる方が現れるのです」
そう、あの夢は数え切れない程今までに見てきたため、あの後の展開も、私は知っている。
暴漢に襲われかけた私を、偶然居合わせた男が、助けてくれるのだ。
暴漢達はその男と、男が連れていた部下の者達に倒され、私はギリギリの所で救われるのである。
事実、私は昔、その様にして助けられたのだった。
あの男が何者だったのか、未だに分からない。
あの場にいた部下以外にも、多くの兵を連れていたらしい。
どこぞの将軍だったのかもしれない。
その男は今から向かう所があるからと言うので、その場で別れた。
別れ際に「真っ直ぐ家族の元へ戻るように」と言う男の言い付け通り、私は皮袋を持って一目散に家族の待つ馬車へと逃げ帰った。
男に言われるまでもなく、これ以上一人で出歩くつもりはなかった。
「本当は送ってやれたら良いんだが……」と、最後に言った男の笑顔が、優しかった事だけは覚えている。
それ以外は、顔も声も背格好すらも覚えていない。
もう数十年前の幼い頃の話であるため、無理からぬ事ではない。
夢で見る時は、顔の辺りだけがぼんやりと霞んでいた。
それはその男に限った事ではなく、夢に出てくる他の男達全てに共有する事なのであるが。
場面場面で人物が印象的な目や表情をしたことだけを、覚えているのである。
「じゃあ、私が起こさなくても良かったのかな」
劉備様が、冗談めかした笑顔で言う。
だいぶ酒が進んでいるのか、頬が紅に染まっている。
あれだけ酌をされては、それも当然だろう。
その姿が無性に微笑ましくて、私はほんのすこし笑った。
「いえ、嫌な夢には変わりありませんので。ありがとうございます」
「そうか?なら良いんだが」
劉備様はそう言って、右手に持っていた酒で満たされた杯を差し出す。
「殿?」
「飲め、孔明。酔って眠れば夢は見ない」
この人なりの、慰めだろうか。
「ありがとうございます」
酒を溢さないように、私は慎重に杯を受けとる。
あまり酒は好きではないというのは、この際黙っておこう。
「もう夢を、見ないと良いな」
酒は苦く、それでいてどこか甘かった。
確かに、酒であの夢を見なくなれるなら、願ってもない事である。
荊州に来たばかりの頃から、幾百の夜も私を苛んだ悪夢。
その夢は、ただあの男が助けてくれる事だけが救いだった。
あの男は、何者だったのだろう。
今逢う事が出来るなら、その時はこうやって苦手な酒を酌み交わすのも悪くはない。
でも――
「ありがとうございます、殿」
今はこうやって、目の前に私を救って下さる方がいる事をに満足し、そして感謝しなければならない。
〔終〕
これはお題小説として書いた物ですが、『軍師殿と私』とリンクしている内容であるため、番外編として扱うことにしました。
孔明が作中で悪夢を見ると言っている悪夢とは、この夢含む少年期の辛い経験の回想のようなものばかりです。
男性に対して嫌な経験がある風に語った事(『聞こゆれど』)も、この一件を思い出していってます。