前を歩く後ろ姿が徐々に近付いて来る。
鍾会は歩く速度を更に上げて、その背中に迫った。
「何晏殿!」
背中を捕らえられそうなほど近づいた時、初めて声をかけた。
驚かせよう等と他愛もない事を考えたわけではないが、呼ばれた方――何晏は驚いて振り返った。
「え?……ああ、若サマ」
白粉を塗った顔はいつも通り真白く、髪の毛はゆるく鬢の毛のみを後ろに束ねている。
その姿は人目を引くが、それは本人の思惑通りだと言えるだろう。
「後ろ姿が見えたので」
「それで追いかけてくれたと?嬉しい事言ってくれますねぇ」
「……貴方がいらっしゃるとは思わなかったので」
「それで気になって来てくださるなんて……いや、若サマがそんな事して下さるとは恐悦至極」
「…………」
何晏はニヤニヤと面白そうに笑っている。
鍾会が馬鹿丁寧に喋っているのが滑稽で仕方ないらしい。
「……あんたが来るとは意外でしたよ」
「ふふ、私だって一応朝廷に参内する身ですからねぇ。空気位は読みますよ?」
「…………」
今しがたまで、鍾会と何晏の二人は宮殿にいた。
呉の朱然が軍を起こした事によって包囲された樊城を、国の重鎮たる司馬懿自らが騎兵を以て救出した。
その労をねぎらう為の宴が、国をあげて行われたのである。
「相変わらず面の皮厚そうな男でした事」
「……何晏殿、声が大きいですよ」
「あれ、怖いのですか?司馬家に睨まれるのが」
何晏はゆっくりと歩きながら、ニヤニヤとしている。
鍾会も何晏の歩く速度に合わせてゆっくりと連いて行く。
人を馬鹿にする様な表情はいつもの事だが、慣れる事は無い。
いつまで経っても不快なものは不快だだ。
「それは勿論でしょう?」
「若サマでもあの親爺が怖いのですか、ははは」
挑発する様な笑い声。
これが地だから救えない。
鍾会は聞こえる様に溜め息をついてみせた。
「……司馬大傅は先帝に政治を任されて以来、国の中心であられます。その力は皇族にも迫る勢いであると……」
「んんー、そうらしいですねぇ」
「諸葛亮が死んだ今、もうあの方が蜀軍を防ぎに出て行く事も無い。北方の公孫氏も討伐しました。呉も暫くは動かないでしょうし……。司馬大傅が都を離れる事もこれからは少なくなるでしょう」
「ああ嫌だ。これからはずっとあの親爺の面を見て過ごさねばならないなんて」
何晏はオーバーに肩をすくめて、いかにも嫌そうな顔をする。
「何故あの人がそんなに嫌いなんです?」
「あのしたたかで面の皮厚そうな所が気に入らない」
したたかで……面の皮厚そう?
蜀の諸葛亮をその叡知と軍才で退けた名将に対し、都でその様な事を言う者はいない。
「私はねぇ、若サマ。危うい位の人間が好きなんです」
「え?」
「あの親爺は、そういうモノとは無縁でしょう?いつでも上手い事やって生き延びる男ですよ。……ああ、可愛いげの無い」
嫌らしい笑顔はいつの間にか消え、変わって苦々しそうに唇を噛んでいる。
歩く速度も速まる。
気分の移り変わりが激しい男だ。
かと思うと、またピタリと突然足を止めて振り替える。
鍾会を見て、にやりと笑った。
「その点、曹爽様は危うい感じしますでしょう?ふふふ……」
曹爽――。
曹家の皇族として力を持っている男である。
先帝曹叡の信頼厚い者と言えば、家臣からは司馬家の司馬懿。
そして親族からは曹家の曹爽と言われていた。
曹叡はその二人に国の後事を任せて死に、二人は遺言通りに協力して国を動かしている。
何晏はその曹爽の側近として、日々側仕えをしている様だ。
「曹爽様はお持ちの身分と権力には不釣り合いのお方ですよ」
何晏はさも楽しそうにとんでもない事を言った。
思わず鍾会の方が辺りを見回してしまう。
「そ、その様な事は……」
「側仕えしている私が言うんですよ?ふふふ……だから、曹爽様は良いんですけれど」
気味が悪い……。
鍾会は背中に寒い物を感じたか、顔には出さずあくまで平静を装った。
何晏はなおも楽しそうに続ける。
「曹爽様がこのまま真面目に生きていけば、勿論今の通りに生きていくのでしょうけど」
「…………」
この男が側に控えている限り……その可能性は低いだろう。
鍾会は曹爽を憐れに思った。
いや……。
向こうもこの男を好んで側に置いているのだ。
奴も奴で、どこかおかしな人間なのかもしれない。
そこが何晏の言う「危うさ」なのか?
鍾会には何晏の言う事が今一飲み込めない。
それを知ってか知らずか、何晏は鍾会の耳元に近付いて言う。
まるで、諭す様な口調で。
「……若サマも、同じ臭いがしますよ」
「――えっ?」
「だから若サマの事も大好きなんです、ふふ……」
鍾会はハッとなって何晏から離れた。
何晏はその反応に満足した様子でにやにやと鍾会を見つめている。
「…………」
私も……同じ臭い?
言われてみれば私も……、なんだかんだで何晏と親しくしている。
そんな私も……同じだと言うのか?
鍾会は頭に浮かんだら不吉な考えを否定する気持ちで、何晏を睨み付けた。
「おお、怖い怖い。でもその綺麗な顔で睨まれるのも一興」
「私を……あんた達と一緒にしないで貰えますかね」
「あは、やはり若サマはそうツンツンしてる方が素敵ですよ。つり上がった眉が可愛いです、ふふふ」
こいつ……。