愛すべき狂人たち 愛すべき狂人たち−1


前を歩く後ろ姿が徐々に近付いて来る。
鍾会は歩く速度を更に上げて、その背中に迫った。

「何晏殿!」

背中を捕らえられそうなほど近づいた時、初めて声をかけた。
驚かせよう等と他愛もない事を考えたわけではないが、呼ばれた方――何晏は驚いて振り返った。

「え?……ああ、若サマ」

白粉を塗った顔はいつも通り真白く、髪の毛はゆるく鬢の毛のみを後ろに束ねている。
その姿は人目を引くが、それは本人の思惑通りだと言えるだろう。

「後ろ姿が見えたので」

「それで追いかけてくれたと?嬉しい事言ってくれますねぇ」

「……貴方がいらっしゃるとは思わなかったので」

「それで気になって来てくださるなんて……いや、若サマがそんな事して下さるとは恐悦至極」 「なら貴方こそ、その気持ち悪い話し方をお止めになられたらどうです?」

「…………」

何晏はニヤニヤと面白そうに笑っている。
鍾会が馬鹿丁寧に喋っているのが滑稽で仕方ないらしい。

「……あんたが来るとは意外でしたよ」

「ふふ、私だって一応朝廷に参内する身ですからねぇ。空気位は読みますよ?」

「…………」

今しがたまで、鍾会と何晏の二人は宮殿にいた。
呉の朱然が軍を起こした事によって包囲された樊城を、国の重鎮たる司馬懿自らが騎兵を以て救出した。
その労をねぎらう為の宴が、国をあげて行われたのである。

「相変わらず面の皮厚そうな男でした事」

「……何晏殿、声が大きいですよ」

「あれ、怖いのですか?司馬家に睨まれるのが」

何晏はゆっくりと歩きながら、ニヤニヤとしている。
鍾会も何晏の歩く速度に合わせてゆっくりと連いて行く。
人を馬鹿にする様な表情はいつもの事だが、慣れる事は無い。
いつまで経っても不快なものは不快だだ。

「それは勿論でしょう?」

「若サマでもあの親爺が怖いのですか、ははは」

挑発する様な笑い声。
これが地だから救えない。
鍾会は聞こえる様に溜め息をついてみせた。

「……司馬大傅は先帝に政治を任されて以来、国の中心であられます。その力は皇族にも迫る勢いであると……」

「んんー、そうらしいですねぇ」

「諸葛亮が死んだ今、もうあの方が蜀軍を防ぎに出て行く事も無い。北方の公孫氏も討伐しました。呉も暫くは動かないでしょうし……。司馬大傅が都を離れる事もこれからは少なくなるでしょう」

「ああ嫌だ。これからはずっとあの親爺の面を見て過ごさねばならないなんて」

何晏はオーバーに肩をすくめて、いかにも嫌そうな顔をする。

「何故あの人がそんなに嫌いなんです?」

「あのしたたかで面の皮厚そうな所が気に入らない」

したたかで……面の皮厚そう?
蜀の諸葛亮をその叡知と軍才で退けた名将に対し、都でその様な事を言う者はいない。

「私はねぇ、若サマ。危うい位の人間が好きなんです」

「え?」

「あの親爺は、そういうモノとは無縁でしょう?いつでも上手い事やって生き延びる男ですよ。……ああ、可愛いげの無い」

嫌らしい笑顔はいつの間にか消え、変わって苦々しそうに唇を噛んでいる。
歩く速度も速まる。
気分の移り変わりが激しい男だ。
かと思うと、またピタリと突然足を止めて振り替える。
鍾会を見て、にやりと笑った。

「その点、曹爽様は危うい感じしますでしょう?ふふふ……」

曹爽――。
曹家の皇族として力を持っている男である。
先帝曹叡の信頼厚い者と言えば、家臣からは司馬家の司馬懿。
そして親族からは曹家の曹爽と言われていた。
曹叡はその二人に国の後事を任せて死に、二人は遺言通りに協力して国を動かしている。
何晏はその曹爽の側近として、日々側仕えをしている様だ。

「曹爽様はお持ちの身分と権力には不釣り合いのお方ですよ」

何晏はさも楽しそうにとんでもない事を言った。
思わず鍾会の方が辺りを見回してしまう。

「そ、その様な事は……」

「側仕えしている私が言うんですよ?ふふふ……だから、曹爽様は良いんですけれど」

気味が悪い……。
鍾会は背中に寒い物を感じたか、顔には出さずあくまで平静を装った。
何晏はなおも楽しそうに続ける。

「曹爽様がこのまま真面目に生きていけば、勿論今の通りに生きていくのでしょうけど」

「…………」

この男が側に控えている限り……その可能性は低いだろう。
鍾会は曹爽を憐れに思った。

いや……。
向こうもこの男を好んで側に置いているのだ。
奴も奴で、どこかおかしな人間なのかもしれない。
そこが何晏の言う「危うさ」なのか?
鍾会には何晏の言う事が今一飲み込めない。
それを知ってか知らずか、何晏は鍾会の耳元に近付いて言う。
まるで、諭す様な口調で。

「……若サマも、同じ臭いがしますよ」

「――えっ?」

「だから若サマの事も大好きなんです、ふふ……」

鍾会はハッとなって何晏から離れた。
何晏はその反応に満足した様子でにやにやと鍾会を見つめている。

「…………」

私も……同じ臭い?
言われてみれば私も……、なんだかんだで何晏と親しくしている。
そんな私も……同じだと言うのか?
鍾会は頭に浮かんだら不吉な考えを否定する気持ちで、何晏を睨み付けた。

「おお、怖い怖い。でもその綺麗な顔で睨まれるのも一興」

「私を……あんた達と一緒にしないで貰えますかね」

「あは、やはり若サマはそうツンツンしてる方が素敵ですよ。つり上がった眉が可愛いです、ふふふ」

こいつ……。



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