欺瞞 欺瞞−1


長安は活気に包まれていた。
街道では多くの街の人々が行きかい、どこでも声が途絶えることは無い。
道の傍に連なるように建てられた店ではそこかしこで商売がなされている。
行政が商業を盛んにするためになした様々な措置が功を奏した結果だろう。
数年前、逃げるようにしてこの街を出た時とは大違いだ。


暴君・董卓がこの街に君臨し、政治をほしいままに行っていた頃、この街はかつての栄光も嘘のように荒み、荒れ果てていた。 街は死んだ。
それがまたこうして不死鳥のように復活し、再び活気を取り戻し始めている。
人々の力とは、なんと強く逞しいことであろうか。

しかし当然この目覚しい復興がなされたのは民衆の力だけによるものではない。
この街を統括する政治が優れているからこその復興だ。
そしてその政治体制の中心に君臨するのが曹操、字を孟徳その人である。

「良く来たな、司馬朗」

名君の誉れ高きこの男が、私をこの街に呼んだ張本人に他ならない。
噂どおりの小柄な身体。

「曹丞相こそご機嫌麗しゅう」

「いやいや、つまらぬ挨拶は良い。久々の長安はどうだ?
ぬしの一家はかつてはこの地に暮らしていたというが」

「活気の良さに驚いております」

「ははは、そうかそうか」

満足そうにこの人は笑った。

「ぬしの治める堂陽も、非常に賑わいがあると聞いておる。 ぬしの評判は余の耳にもよく聞こえておるぞ」

「これは・・身に余るお言葉です」

「謙遜せずとも良い。この度ぬしをわざわざこうして呼んだのも、その功績を報いてやろうとしたためだ。
余はぬしを中央に呼ぼうかと考えておるが、そちとしてはどうだ?」

間違いなく出世の話だ。
普通ならば一も二も無く飛びつくべき話なのかもしれない。
だが−・・。

「ありがたいお話にございます。ですが私は、任地でまだまだやり残したこともあります故、今中央に参内するのは遠慮しとうございます」

「ふむ・・そうか。ならば無理強いはできぬ。
いつでも中央に戻りたいときは言うが良い」

「ありがたき幸せにございます」

拱手をした両手を高く掲げ、感謝の意を表した。
曹操は満足そうに一度うなづいて、再び口を開く。

「時に司馬朗。そちには下に七人の兄弟がいるそうだな」

「・・えぇ、いかにも」

「司馬の八達と言われ全員優秀だそうではないか」

司馬の八達・・兄弟全員の字に「達」の字が入ってることから、いつの間にか世間でそういわれるようになった。
不肖ながら、私がその八達の長男である。
曹操は続けて言う。

「優秀であるならば是非我が陣門に加えたい。
司馬朗よ、弟達の中でもとりわけ優秀なものは誰だと思う?」

なるほど。
わざわざ私を中央に呼んだのは、このこともあってか・・と私は一人納得した。
人材狂と言われるだけあるこの人が、我が兄弟に目をつけるのは前々から予想はしていた。
この日が来る事を恐れて、私が中央から逃げるようにして地方に根を生やしているということなど、この人には考えもつかないだろう。

「・・私のすぐ下に、仲達という弟がおります」

訊かれてしまっては、答えないわけにもいくまい。
私は、いつ頃から心に刻み付けたか分からない言葉を・・ゆっくりと吐く。

「我が兄弟の仲で最も優れているのが、その仲達です。無論、私よりも」

私の言葉にかすかに曹操の瞳が開かれた。
優秀と言われれば言われるほど、欲しくてたまらないのがこの人の性である。

「ほう・・主よりもとな」

「年は離れておりますが、幼き頃より私以上の秀才ぶりを発揮しておりました」

そうだ、そうなのだ。
幼い頃から、頭の回転が速く、知識が深く、機略に富んだ弟。
私以上に、それを痛烈に思い知っている人間はいないだろう。
日々嫉妬と劣等感に苛まれ続けた私以上には・・。

「そこまで言うなら是非登用したい。司馬朗よ、主の口から弟を説得してはくれぬか?」

「・・勿論」

拒否の選択肢など無いことは分かっている。


〜〜〜〜


年の離れた弟とはいえ、今や立派な成人である。
妻を迎え、子を成し、自分たちだけの住居に住んでいる。
この家を訪れるのは、いつくらいぶりか分からないくらい久々のことだ。
記憶が正しければ、この家に長男の師が産まれた時の祝いのために顔を出したのが最後だったように思われる。
本来ならば、その様な祝いにすら顔を出したくなかったが、そうにもいくまい。
我が事のように喜ぶ両親や兄弟たちの中にまぎれて喜んでいる振りをしたことだけは昨日のことのように思い出せた。
次に次男の昭が産まれた時には、忙しいと理由をつけて行かなかった。
地方に任官されて良かったとその時は切実に思ったものだった。

「これは義兄上様・・お久しゅうございます」

仲達の嫁、春華が私を出迎えた。
子供を二人も産んだせいか、めっきり老け込んだように思われる。
相変わらず愛嬌の無い女だが、良く気が利くので嫌いではなかった。

「久しぶりです。子供たちは元気かね?」

「ええ・・毎日つつがなく過ごしております。義兄上様に子上の顔を見せたいのですが、あいにく今は出ておりまして・・」

子上とは次男の昭の字である。

「いやいや、構いませんよ。ところで、仲達は・・?」

「そろそろ帰ってくる頃だと思います。義兄上様が来たというのに無礼ですみません」

「いやなに、春華殿が気に病まれる事ではありません。 仲達はどこへ?」

「散歩です。散歩が趣味なんです、あの人」

そっけなく言う。
子宝には恵まれたが、この夫婦はあまりうまくいってないのかもしれない、などとおせっかいにも思った。

「ただ今戻りました」

突然局(へや)に入って来る者がある。
まぎれもない、弟の仲達だった。

「仲達・・」

「これは兄上、申し訳ない。日課の散歩に出ていた所なんです。
兄上が来ると知っていれば、家を出るようなことはしなかったんですが・・」

そう言いながら、いそいそと私に向かい合う席につく。
夫が入ってくると、春華は局を出て行った。

「いや、お久しぶりですね兄上。いつ頃振りですかね・・子元(司馬師の字)の誕生の席依頼ですかね」

記憶を探るように、視線を泳がせる弟。
遠回しに私の疎遠をなじるつもりであろうか・・と思ったが、そんな事は頭にしまう。
どうしても、この弟と向き合うと妙に頭を使ってしまう。

いつから私はこの弟を、この様に恐れるようになったのだろう。
この、年の離れた弟を。
恐らく、いつと言う事は無いのだろう。
私の身体がじわじわとこの弟の才を知覚するに従って、理屈ではなく恐ろしいと思うようになった。
私の愚かさを哂っているのではないか。
私の行いを馬鹿にしているのではないか。
一度思い始めたらもう止める事は出来ない。
私の中でこの弟が悪魔のような存在になり始めた頃・・私は家を出た。
地方官に任官されたからであるが、私は逃げ場所を求めるように家を去った。
それから一度大病を患って職を辞したこともあったが、回復してからも都に戻らず地方で職務を全うしている。
弟の影を払うかの如く、私は仕事に没頭した。
そのためか、私の治める堂陽は栄え、私も名官吏として誇られるようになった。
それが今回の都への招聘に繋がったとすれば、皮肉としか言いようが無いが。

「仲達・・何も変わったことは無いか?」

「お陰様で毎日暢気に暮らしております」

この弟は、計り知れない才を秘めながら立身出世の欲が弱いらしい。
それがまた、私にはひどく不快に映る。
あくせく働いている私を嘲笑しているのではないか。
まるで老荘の徒のように。

「兄上の話は良く耳にしております。大変、徳のある政治を行っているとか。
領民からも大層慕われているということで、弟としても誇らしい限りです」

白々しい。
白々しい。
ああ、苛々する。

「この度お前を訪ねたのは・・」

不快感ばかりを募らせる弟の賛辞を無視して本題に入る。

「丞相閣下がお前を幕下に加えたいと仰られてな」

「私に仕官の話を持ってきたので?」

「そういう事だ」

「ありがたいお言葉です。ですが、我が司馬家からは既に父上と兄上が出仕しておられます。
それを今更私が仕官するのは・・」

「遠慮しているのか?」

「・・・・」

弟は黙りこくる。
いつもこうだ、と私は心の中で毒づいた。
いつも父や、兄である私を立てて一歩さがる。
厳しい父の教えによる行動に他ならないが、私には鼻について仕方が無い。

だが内心では思っているのだろう?
私が最も優秀だ、と。

「何も遠慮することはないのだよ、仲達」

「兄上・・」

「お前は賢い。それを活かす事は、きっと父上も喜ばれる。私達の為にも、その才活かすが良かろう」

気色の悪い遠慮などいらない。
仕官して、出世して、私を笑えばいい。
ああ、兄上は愚かですね・・と。


結局この日は仲達は首を縦に振らなかった。
後は野となれ山となれと思った私は、そのまま任地へ帰った。

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