【扶蘇】
「かつて陛下がこの地へ訪れた時に、おっしゃられたのです。長城から見る景色は、世界の果ての様だろうと」
父上が、かつてこの地へ訪れた?
そう言えばそんな事もあった気がする。
もう何年も、いや十何年も前の事だったか。
私がまだ幼かった頃の話だ。
「その時こうもおっしゃられたのです。長城からの雪が見たいと」
長城からの雪。
「いつか、お見せしたいですな……」
蒙恬は、私を見て言った。
私……。
私を見ているのか?
「都に帰ったら、この景色の事を陛下にお伝えして差し上げて下さい」
にっこりと、顔を綻ばせて言う。
「私は、当分都には戻れないでしょうから」
笑顔の奥の瞳が淋しげに揺れている。
これほど蒙恬が淋しそうな、弱々しい顔をしたのは見たことがない。
無理に笑った顔が痛々しい。
「陛下がまた、こちらに来られれば良いのですが」
――あ。
「また、一緒にここでお過ごし出来たら感無量です」
それも。
「雪を見たいとおっしゃられたなら、ご一緒します」
その言葉も。
「――などと、言っても届きませんが」
私が欲しかった言葉じゃないか。
「だから太子様、都に帰ったら是非陛下にお話しして差し上げて下さい」
「ああ……」
私ではないのだな。
蒙恬が見ているのは。
「……蒙恬、戻ろう」
「あ、お寒いですか?」
「うむ、寒い……とても寒い」
「では戻りましょう、風邪をお召しになるといけませんから」
「そうだな……」
いつの間にか、雪はさらに弱まっていた。
時折私の肩に落ちては、瞬く間に消える。
このままいけば、今日は晴れるだろう。
昨晩のうちに降り積もった雪も、溶けてしまうかもしれない。
溶けてしまえば、良い。
全て溶けてしまえば。
「蒙恬」
「はい」
「私がこの地に骨を埋める事になったら……」
「太子様?」
「お前も、ついてきてくれるか……?」
我ながら、どういう意味なのだと苦笑する。
「太子様は、そのような事にはなりませんからご心配なさらず」
蒙恬は、相変わらずの優しい笑顔で答えた。
その瞳に、さきほどのような淋しげな色はない。
この地で私を迎え入れてくれた時と同じ、曇りのないまっすぐな微笑み。
「きっとすぐに、陛下が呼び戻して下さいますから」
お前はやっぱり、私の欲しい言葉をくれないのだな。
優しいようで、冷たい。
まるで今日の雪のような男だ。
【扶蘇】で始まるページは、父である始皇帝の焚書坑儒に反対して北へと遣られた皇太子扶蘇と、その派遣先で待っていた蒙恬とのやりとり(扶蘇視点)
【蒙恬】で始まるページは、長城建設を任されて北の地で働いている蒙恬の元へ、始皇帝の政が巡幸に来た際の二人のやりとり(蒙恬視点)
【扶蘇】は【蒙恬】の大体10年後…くらいだと思って下さい。
【蒙恬】はまだ秦が天下統一して間もなくの頃で、長城建設も始まってそれほど経ってない頃です。
だから始皇帝もちょっと確かめに来たという設定。
旅好きで有名な始皇帝ですが、確か北には行ってない…と思います。
でもまぁそんな大々的じゃない旅行だった、という事で!
【扶蘇】は始皇帝が死ぬ数年前の、不老不死に躍起になり始める頃です。
蒙恬の知っている若い頃とはだいぶ人が変わってしまっていますが、蒙恬はそんな事全く知らないわけです。
ちなみに李斯は鼠が嫌いなわけではなく、鼠を見てるとかつての自分を思い出して嫌になるだけです。