【蒙恬】
雪が、降り始めた。
ちらちらと遠慮がちに空から舞い落ちてくる。
吐く息よりも真白いそれは、乾燥した大地に落ちて、溶けた。
積もるにはまだ早い。
「日毎に寒くなるな、ここは」
不快そうにぼやく姿は、着膨れしていて妙に微笑ましい。
頬と高い鼻の先が紅く染まっている。
「積もれば、もっと寒くなりますよ」
「そうか」
「今年の作業もそろそろ終わりですね」
後は来年の春まで、なんとか極寒の冬を耐え忍ぶ。
いや、耐え忍ぶだけ……ではないか。
食糧が尽きた匈奴の民が、雪を踏み分けて攻めて来る事がある。
そうなれば我々は当然応戦しなければならない。
冬の戦闘は、それは辛い。
弓の弦が凍り付く事すらあるのだ。
しかし、長城に籠城する我々はまだ良い。
向こうは馬に乗っての野戦だから、辛さは倍のはずだ。
草原の民の強さはまさに驚嘆ものである。
「どれくらいで積もりそうか?」
「ここの所風が強いですから、あと2、3週間は先でしょう」
「そうか……では積もる前に都に戻らねばな」
「――えっ?」
まさか。
恐れていた瞬間は、こんなにも呆気なく訪れるのか。
「雪が積もれば、行軍が出来なくなる。来年の春まで戻れなくなるからな」
戻らなければ、良い。
春までずっといれば良いのだ。
積もれ。
積もれ、雪よ。
出発前に積もってしまえば、この人は戻れない。
一緒に、いれる。
そうすれば見たいと言っていた雪も、見られるではないか。
「長城からの雪が見れないのが残念だな」
分かっている。
見れないからこそ、この方は「見たい」と言ったのだ。
分かっている。
分かっていた。
雪が積もる前にこの人が戻ってしまう事も。
分かっていても、望んでしまう。
ワガママだ、私は。
【扶蘇】
朝目覚めると、外は一面の銀世界だった。
久々の眩い光景に、思わず目を細めた。
蒙恬はあと2、3週間は先だろうと言っていたが、その予定は随分と早まったようだ。
そう言えば昨日は夜半からかなり吹雪いていたようだった。
こう白々としていると、余計寒く感じる気がして、私は何重にも服を着込んだ。
着膨れしている感は否めないが、背に腹は変えられない。
ありったけの防寒をして、私は部屋を飛び出した。
「蒙恬、雪だ!雪が積もったぞ!」
蒙恬はいつもの通り、鎧を身に付けている。
それなりに着込んではいるが、私程ではない。
流石に慣れているという事か。
「ええ、思ったより早かったですな」
「昨晩はかなり吹雪いていたからな」
「外の様子を見に行きましょうか」
「うむ」
砦の表は既に幾人かの足跡がついて、まっさらとは程遠い。
「太子様、長城から雪を見ましょうか」
「長城に上るのか?」
「今なら雪は弱いですし、きっと綺麗な雪原が見れると思います」
「よし、では行くか」
私と蒙恬は、ちらちらと小雪の降る中、長城へと上った。
昨日まで人夫達が働いていた場所が、今朝は既に雪が被さっているのは不思議な光景だ。
昨晩急に天候が崩れたためか、工事現場はいかにもやりかけと言った様子である。
来年の春までは、そのままの姿で放置される事になるのだろうか。
「おお、ここからの景色は素晴らしいな」
視界を満たすのは白、白、白……一面の白だ。
遠くに見える山も、大地も、全てが白い雪に覆われている。
空すらも雲で満たされているから、まさに白の洪水だ。
その白の洪水の中に、長城だけがそびえ立っている。
いや、浮いていると言った方が近いか。
白い大河に、長城が浮いている。
「同じ雪でも、咸陽で見る雪とはまた違うな」
「遮る物がありませんからな」
「確かに、凄い見晴らしだ」
壮観としか、言いようがない。
雪にも色々な表情があるのだと、しみじみと痛感する。
「世界の果て、みたいでございましょう」
「世界の果て?」
確かに……この先は何もないと思わせるこの光景は、確かに果てを思わせる。
「蒙恬よ、上手い表現をするな」
「いえ、私の言葉ではありません」
「え?」
「陛下がおっしゃられたのです」
――父上?