長城に降る雪 長城に降る雪−3


【扶蘇】


あっという間に冷たかった大気はさらに気温を下げ、冬が訪れた。
以前蒙恬が「すぐ冬が来る」と言っていた事があったのだが、その通りになったわけだ。
厚ぼったい雲が空を覆い、天気は今にも崩れそうな日が続く。
しかし、雪は降らない。

「蒙恬。雪が降り始めたら、工事はどうなるのだ?」

「一日も早く終わらせたい……所ではありますが、雪が積もると、とてもじゃありませんが作業は出来ません」

「ほぉ、そんなに積もるのか」

「ええ、それはもう」

「そうか。全くここは、ひどい所だな……」

寒い、埃っぽい、文明的な物は長城だけ。
何も無い、淋しい所だ。

「そんなひどい所でも、匈奴達にとっては大切な故郷なのですよ」

「故郷?」

「奴等はこの地を守る為に必死です。私は何度も奴等と戦いましたから」

この僻地が、守るべき故郷。
命を賭けてでも大切にしたい場所。
私には想像もつかない。

「……私達とはまるで違う世界に生きる者もいるのだな」

「そうです。そして私達も奴等も、自分の生活を守る為には戦わねばなりません」

「…………」

勿論そんな事、私だって知っている。
中華と異狄――いや、中華の民同士でも自らの生活の為に戦をする。
その戦を勝ち抜いたからこそ、父上は皇帝となれた。
しかし今も、各地で戦は続いている。
戦はなくなりはしない。
今日もまた、どこかで誰かが争って、命を落としている。

だが都にいるだけではそれは話に聞くだけの事。
それがここには紛れもない実態として、ある。
凍える様な寒さ。
土と空だけの寂れた景色。
そして、異民族との戦闘。
それらが全てここには実在する。
都にいては感じられない事ばかりだ。

――私は、ここに来て良かったかもしれない、そんな風に思い始めた。
父上が私をこの地へ送ったのは、ただの左遷ではなかったのかもしれない。
父上は父上なりに、私を想って命令したのかもしれない。
ここは何も無い場所。
そう見えて、今までの私だったらきっと想いも馳せなかった場所だろう。
何も無い中に、私の知らない色々なものがあった。
そして――

「蒙恬」

「はい、太子様」

「ここにお前が居て良かった」

ここには、蒙恬がいる。
父上はきっと、この男から色々な事を学べと言いたかったのだろう。

「私も、太子様とこうして一緒にいられる時間を与えられた事、嬉しく思います」

「蒙恬……」

蒙恬は、良い男だ。
この男といると、温かい気持ちになれる。
向こうも、同じ風に思ってくれているのだろうか?

「蒙恬、お前はずっと私の味方でいてくれるか?」

もし、父上私をこの地へ遣ったのが、単に左遷だとしても。
もし、私が……太子の座を下ろされたとしても。

「……太子様?」

ずっとずっと味方で、いてくれるのだろうか。

「何か不安な事でもおありなのですか……?」

蒙恬は少し面喰らったような表情をした後、心配そうに私の顔をのぞきこんだ。

「いや、そういうわけでは……」

「大丈夫ですよ、太子様」

「え……?」

「陛下も直に太子様の事を赦されて、都に呼び戻されるでしょうから」

……そうじゃない。
私が欲しいのは、そんな言葉ではない。
ただ一言「味方だ」と。
ただそれだけ、言ってくれれば良いのに。

本当は分かっている。
そんな事聞かずとも、蒙恬はいつでも私の力になってくれるだろう。
分かっているのに、言葉にして聞きたい。

ワガママだ、私は。

「都へ戻る日のために今は病気をせず、健やかにお過ごし下さい」

帰らないでくれ。
お前がそう言えば、私はずっとここに居るのに。



【蒙恬】


「ここにも鼠はでるのか?」

「鼠?」

突然の話題。
相手に構わず自分の言いたい事を話すのも、この人の悪い癖だ。
だがそれすらも楽しい。
次はいつ話せる機会があるか、分からない。
陛下の気まぐれの為だとしても、こうやって会う機会が与えられた事がたまらなく嬉しい。

「出ますよ。でも都よりは少ないでしょう」

「ほう」

「寒さのせいでしょうか。あと食べる食料がロクに無いからでしょう」

「それでもいるはいるのだな」

「はい、しぶとい奴等ですね」

「ふふ、李斯が残念がるな。どんな場所でも鼠がいると知ったら」

「…………」

李斯が鼠が嫌いだとは知らなかった。

「蒙恬、李斯が嫌いか?」

「あ、え……」

「いや、何となく李斯の名を出したら嫌そうな顔をしたからな」

「いえ、嫌いなどではありません」

李斯は優秀な宰相だ。
秦が発展し、中華を統一出来たのも、奴の力による所が大きい。

ただ……。
李斯は今までずっとこの人と側にいた。
そしてこの人が都に戻ってしまえば、またいつでも会える。
顔が見れる場所にいる。
遠い北の地にいる私とは違う。
それがただ憎い……いや、羨ましいだけで。

「今度会ったら、鼠をけしかけてやりますかね」

「ほら、やはり嫌いなのではないか」

「あっ」

つい口が滑った。
そんな私を見て、クスクスと笑っている。
この人の前では勇ましくいたいのに、なにかいつも違う方向に行っている気がする。
まぁ、いいか。
この人が笑ってくれるなら。

「李斯も蒙恬も、国の重鎮だ。仲良くしてくれ」

「はい……」

「なんだ?不服そうな顔だな」

私は、貴方の特別になりたいのです。

――などと言ったら「出過ぎた真似を」、と怒られるだろうか。
他の誰とも比べないで欲しい。
ただ私を、私だけを見て欲しい。

……なんて、無理だと分かっているのに。

「帰る」

えっ――。

「み、都にですか!?」

一瞬の立ち眩み。
光が薄れると、呆れた様な顔がこっちを見ていた。

「そんな簡単に帰れたら苦労はせぬ。砦に戻るのだ」

「は、はい」

この人が都に戻ると言った時、私はどうなるのだろう。
いっそこの人を捕まえて監禁してしまおうか。
いやいや、愚かな事を。
そんな事をしたら、私の首が飛ぶ。

結局の所、私がこの人のために出来る事と言えば、この辺境の地で長城を作る事だけだ。
今はそれで満足しよう。
そう、自分に言い聞かせる。


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