【扶蘇】
あっという間に冷たかった大気はさらに気温を下げ、冬が訪れた。
以前蒙恬が「すぐ冬が来る」と言っていた事があったのだが、その通りになったわけだ。
厚ぼったい雲が空を覆い、天気は今にも崩れそうな日が続く。
しかし、雪は降らない。
「蒙恬。雪が降り始めたら、工事はどうなるのだ?」
「一日も早く終わらせたい……所ではありますが、雪が積もると、とてもじゃありませんが作業は出来ません」
「ほぉ、そんなに積もるのか」
「ええ、それはもう」
「そうか。全くここは、ひどい所だな……」
寒い、埃っぽい、文明的な物は長城だけ。
何も無い、淋しい所だ。
「そんなひどい所でも、匈奴達にとっては大切な故郷なのですよ」
「故郷?」
「奴等はこの地を守る為に必死です。私は何度も奴等と戦いましたから」
この僻地が、守るべき故郷。
命を賭けてでも大切にしたい場所。
私には想像もつかない。
「……私達とはまるで違う世界に生きる者もいるのだな」
「そうです。そして私達も奴等も、自分の生活を守る為には戦わねばなりません」
「…………」
勿論そんな事、私だって知っている。
中華と異狄――いや、中華の民同士でも自らの生活の為に戦をする。
その戦を勝ち抜いたからこそ、父上は皇帝となれた。
しかし今も、各地で戦は続いている。
戦はなくなりはしない。
今日もまた、どこかで誰かが争って、命を落としている。
だが都にいるだけではそれは話に聞くだけの事。
それがここには紛れもない実態として、ある。
凍える様な寒さ。
土と空だけの寂れた景色。
そして、異民族との戦闘。
それらが全てここには実在する。
都にいては感じられない事ばかりだ。
――私は、ここに来て良かったかもしれない、そんな風に思い始めた。
父上が私をこの地へ送ったのは、ただの左遷ではなかったのかもしれない。
父上は父上なりに、私を想って命令したのかもしれない。
ここは何も無い場所。
そう見えて、今までの私だったらきっと想いも馳せなかった場所だろう。
何も無い中に、私の知らない色々なものがあった。
そして――
「蒙恬」
「はい、太子様」
「ここにお前が居て良かった」
ここには、蒙恬がいる。
父上はきっと、この男から色々な事を学べと言いたかったのだろう。
「私も、太子様とこうして一緒にいられる時間を与えられた事、嬉しく思います」
「蒙恬……」
蒙恬は、良い男だ。
この男といると、温かい気持ちになれる。
向こうも、同じ風に思ってくれているのだろうか?
「蒙恬、お前はずっと私の味方でいてくれるか?」
もし、父上私をこの地へ遣ったのが、単に左遷だとしても。
もし、私が……太子の座を下ろされたとしても。
「……太子様?」
ずっとずっと味方で、いてくれるのだろうか。
「何か不安な事でもおありなのですか……?」
蒙恬は少し面喰らったような表情をした後、心配そうに私の顔をのぞきこんだ。
「いや、そういうわけでは……」
「大丈夫ですよ、太子様」
「え……?」
「陛下も直に太子様の事を赦されて、都に呼び戻されるでしょうから」
……そうじゃない。
私が欲しいのは、そんな言葉ではない。
ただ一言「味方だ」と。
ただそれだけ、言ってくれれば良いのに。
本当は分かっている。
そんな事聞かずとも、蒙恬はいつでも私の力になってくれるだろう。
分かっているのに、言葉にして聞きたい。
ワガママだ、私は。
「都へ戻る日のために今は病気をせず、健やかにお過ごし下さい」
帰らないでくれ。
お前がそう言えば、私はずっとここに居るのに。
【蒙恬】
「ここにも鼠はでるのか?」
「鼠?」
突然の話題。
相手に構わず自分の言いたい事を話すのも、この人の悪い癖だ。
だがそれすらも楽しい。
次はいつ話せる機会があるか、分からない。
陛下の気まぐれの為だとしても、こうやって会う機会が与えられた事がたまらなく嬉しい。
「出ますよ。でも都よりは少ないでしょう」
「ほう」
「寒さのせいでしょうか。あと食べる食料がロクに無いからでしょう」
「それでもいるはいるのだな」
「はい、しぶとい奴等ですね」
「ふふ、李斯が残念がるな。どんな場所でも鼠がいると知ったら」
「…………」
李斯が鼠が嫌いだとは知らなかった。
「蒙恬、李斯が嫌いか?」
「あ、え……」
「いや、何となく李斯の名を出したら嫌そうな顔をしたからな」
「いえ、嫌いなどではありません」
李斯は優秀な宰相だ。
秦が発展し、中華を統一出来たのも、奴の力による所が大きい。
ただ……。
李斯は今までずっとこの人と側にいた。
そしてこの人が都に戻ってしまえば、またいつでも会える。
顔が見れる場所にいる。
遠い北の地にいる私とは違う。
それがただ憎い……いや、羨ましいだけで。
「今度会ったら、鼠をけしかけてやりますかね」
「ほら、やはり嫌いなのではないか」
「あっ」
つい口が滑った。
そんな私を見て、クスクスと笑っている。
この人の前では勇ましくいたいのに、なにかいつも違う方向に行っている気がする。
まぁ、いいか。
この人が笑ってくれるなら。
「李斯も蒙恬も、国の重鎮だ。仲良くしてくれ」
「はい……」
「なんだ?不服そうな顔だな」
私は、貴方の特別になりたいのです。
――などと言ったら「出過ぎた真似を」、と怒られるだろうか。
他の誰とも比べないで欲しい。
ただ私を、私だけを見て欲しい。
……なんて、無理だと分かっているのに。
「帰る」
えっ――。
「み、都にですか!?」
一瞬の立ち眩み。
光が薄れると、呆れた様な顔がこっちを見ていた。
「そんな簡単に帰れたら苦労はせぬ。砦に戻るのだ」
「は、はい」
この人が都に戻ると言った時、私はどうなるのだろう。
いっそこの人を捕まえて監禁してしまおうか。
いやいや、愚かな事を。
そんな事をしたら、私の首が飛ぶ。
結局の所、私がこの人のために出来る事と言えば、この辺境の地で長城を作る事だけだ。
今はそれで満足しよう。
そう、自分に言い聞かせる。