軍師殿と私 窈窕たる淑女は何処−4


趙範が逃亡した――と聞いたのは、件の宴から1週間ほど過ぎての事だった。
趙雲はあの日、そのまま兵や副官だけを残して一人、本陣に帰還した。
劉備も諸葛亮もかなり驚いた様子だったが、趙雲は詳しい事情は一切話さなかった。
以来、桂陽には行っていない。
桂陽へは、劉備が向かっていた。
劉備が到着する目前に、趙範は消えたという事だった。

「趙将軍……」

兵舎を見回っている趙雲のもとへ諸葛亮が訪ねて来たのは、趙範の噂が届いて更に数日後の事だった。

「ぐ、軍師殿っ?」

同じ本陣内に寝泊まりしているとは言え、諸葛亮と会話をする機会は少ない。
実際この日、諸葛亮と話すのは久々の事であった。

「何用ですか?」

「殿が桂陽より帰還されました」

「ああ、殿が。そうですか」

「して、殿が貴方を呼んでいます」

「殿が私を?」

諸葛亮はこくりと頷いた。

「一緒に来て下さい」

「はい、承知しました」

歩き出す諸葛亮の後を、趙雲はついて歩いた。
諸葛亮は比較的歩が遅いので、趙雲が合わせる形になる。
会話は無い。
趙雲も劉備の用件は何かと考えていて、あまり気にならなかった。

「殿、趙将軍をお連れしました」

諸葛亮と趙雲が、礼をしてから劉備の幕舎に入る。
劉備は奥の座台に深く腰かけて座っていた。

「良く来たな、子竜」

「殿こそ、無事の帰還なにより……」

「桂陽の者達から聞いた」

趙雲はパッと顔をあげた。
劉備は面白そうにニヤニヤと趙雲を見ている。
一人なんの事か分からない諸葛亮だけが、事態を静かに見守っている。

「急に帰って来たのは、そういうワケだったんだな」

「いや、それは……」

「相当な美女という話ではないか。勿体ない」

劉備はからかい半分な気持ちと同時に、本心で言っているようだ。

「女で私に取り入り、更には我が軍に取り入ろうとする行為。その様な浅ましい真似をする男は、私は信用出来ませぬ」

「……流石子竜と言った所だな。しかしな、別にお前が趙範の兄嫁をめとったとしても、私は怒らんぞ?趙範が信用出来ないと言うのは分かるが、せっかくだから貰っておけば良いのに」

「殿……」

恨めしげに劉備を睨むと、劉備は声をあげて笑った。

「そんな顔をするな、子竜。私はお前が早く所帯を持ってくれれば良いなと思って言ってるんだぞ?」

「そのお気持ちは、ありがたく受け取っておきます……」

劉備になんと言われようと、趙雲は妻帯する気は無い。
決して独身主義というわけではない。
ただ、今の所必要性を感じていないだけだ。
する時は、する。
あえて急ぐ必要は無いというのが、趙雲の主張だった。

「しかしなぁ……。桂陽の者が言うには、かなりの美しさという話だったからなぁ……惜しい」

「………………」

一度見てみたかったなーと、劉備はぶつぶつ呟いている。
そう言われれば樊氏はどうなったのかと思ったが、劉備の口ぶりから、趙範と共に消えたのだろうと思われた。

「私は女の価値を外見にはおいていません」

「む?」

「それに天下に女はいくらでもいますから。もっと我が軍が落ち着いた時にでも、嫁を探します」

「おわ、なんだか私に責任転嫁してないか?……んー、しかしその台詞、言ってみたいなー」

「え?」

「『天下に女はいくらでもいる』……か。いや、お前ほどのイイ男が言うと、キマるなぁ……」

「劉備様……?」

「はぁ…………。もう退がって良いぞ、子竜。孔明」

「はっ」

傍で静かに立っていた諸葛亮が、久々に声を出した。

「っ……」

完全に諸葛亮の存在を忘れていた。
全て聞かれていたわけか。



Back-- Novel Top-- Next