軍師殿と私 武器と仮面と、すれ違いの興奮−2


「――あっ」

来た。
諸葛亮だ。
やはり歩いて来た。
長江沿いにこっちへ歩いて向かって来る。
趙雲は用心の為に声は出さず、ただ大きく手を振った。
諸葛亮も気付いたようで、急いでこちらに駆けて来た。
趙雲が岸に立つ諸葛亮へと手を差しのべる。
諸葛亮がその手に捕まったので、一気に諸葛亮を船上へ引き上げた。
予想以上に軽い。
上背は趙雲とさほど変わらないのだが、体重は随分と違うようだ。

「軍師殿、お待ちしておりました」

「感謝します。早く出航を」

「は、はい」

諸葛亮に言われるまま、趙雲は急いで船を出発させた。
趙雲達を乗せた小船は、勢い良く長江に漕ぎ出す。
流れに乗ると、一気に加速し始めた。
顔にあたる風は一瞬のうちに激しいものへと変わり、ずっと体を動かしていなかった趙雲は、思わず身震いをした。

「あの、軍師殿」

「はい」

「まさか……追っ手が?」

背後を確認する。
陸には漁民達の姿しか見えないが、どこかに隠れているのかもしれない。
趙雲は剣を握る手に力を込めた。

「いえ、そんな事はありませんけど」

「えっ?」

なんだ……、拍子抜けした。
諸葛亮はそんな趙雲の様子を意にも介さず、視線を進路へと向けた。
走ってきた為か、諸葛亮は肩を上下させて、荒い息をしている。
頬はうっすらと紅潮し、首筋は汗で湿っている。
この様な諸葛亮も珍しい。
趙雲は諸葛亮に気付かれない様に、こっそりと諸葛亮を観察した。
諸葛亮は孫権軍へ説客に向かった時と変わらず、黒い着物に身を包んでいる。
多少髪は乱れているが、その装いには変わりがない。
格好は変わらないが――。
趙雲は今度はまじまじと諸葛亮の全身を見回す。
明らかに痩せている。
以前から痩せぎみだった顔は一層細くなっている。
紅潮がやや引き始めた顔は、心なしか顔色も悪い。
厚手の着物に包まれた身体の線は見えないが、きっと痩せ細っているのだろう。
趙雲が触れれば簡単に壊れてしまいそうな程に。

「軍師殿……」

「はい」

無表情で返す諸葛亮の顔は、やはりやつれている。

「…………」

「何ですか?」

「あ、いや……お加減が悪そうだなと」

「? 特にその様な事はありませんが」

諸葛亮はキョトンとして、趙雲を見た。
私の見間違いか?と一瞬趙雲は思ったが、見直すまでもなく、明らかに諸葛亮は以前より痩せている。

「や、痩せましたな」

「そうですか。そうかもしれませんね」

「…………」

会話が続かない……。
やはり諸葛亮に対してどう応じれば良いか、趙雲には上手く分からない。
しかし狭い船内、お互いに黙っているのも気まずい。
他の兵達は一心に船を漕いでいる。
何か話題を……と思うも、趙雲は元々その様な気の利く男ではない。
どうすべきか……趙雲はジリジリし始めた。

――気まずい、実に気まずい。

気づけば汗まで出ているではないか。
暑いのか寒いのか良く分からない。
そんな気まずい沈黙を破ったのは、意外にも諸葛亮の方だった。

「今夜、孫権軍は出陣します。そしてきっと孫権軍は勝利します」

「え?」

「その後、我が軍は陸上に撤退した曹操軍を追撃します」

「お、おお。そうですか」

「一刻も早く、その事を殿にお伝えせねば」

趙雲を迎えに来させたのも、出航を急がせたのもそのためだったか。
なるほどと、趙雲は納得した。
そして趙雲は兵達に更に急ぐよう指示をする。
風も更に激しさを増す。
長江を走る冷たい風を受けながら、諸葛亮は続けた。

「私は、魯粛殿に頼んで逃がして頂きました」

逃がして――。

「……まさか軍師殿は、孫権軍に監禁されていたのですか?」

「まぁ一応は。と言っても軽い軟禁という所でしょうか」

「軟禁……ですか」

「しかし孫権軍が戦に勝てば、事態は変わります。私は人質として利用価値が出ますから」

「人質?」

「曹操軍が撤退すれば荊州の利権は我が軍と孫権軍で争う事になるは必定。そうなれば『劉備軍の軍師の身柄』は良い脅迫の条件になります」

「なるほど……」

分かったような返答をしつつ、趙雲は諸葛亮の観察を続けていた。
なんだか今日の諸葛亮は良く喋る。
そう言えば、荒い息は収まってもまだ微かに頬は紅い。
首筋も汗で光っている。
……興奮している?
いや諸葛亮に限ってまさか、そんな……。
表情は相変わらず無表情だが、目だけは爛々と輝いている。
瞳孔が拡がって黒目がちになった瞳に、趙雲が映っていた。


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