諸葛亮の仕事場は、宮殿の奥まった一室にある。
急拵えで用意した部屋だが、諸葛亮はそこを既に仕事場として、常時そこに籠っている。
陣における幕舎の位置でも諸葛亮は端を好んだが、仕事場でも同じらしい。
しかしこんな所にあると、本人も周りも不便ではないのだろうかとお節介ながら心配する。
「もし、趙子竜ですが」
趙雲はトントンと戸を叩いた。
陽は傾くにはまだ早い。
諸葛亮はまだ仕事をしているだろうと思ったが、果たして諸葛亮は在室だった。
「はい、どうぞ」
諸葛亮はすぐに戸を開けた。
開けた瞬間に室内から何かの香りが漂う。
龐統の「孔明は香も焚く」という言葉を俄に思い出した。
そう言えば普段から孔明はこの微かに香りを漂わせているが、この部屋にはその香りが凝縮されている。
「趙将軍、お戻りになられていたのですね……」
諸葛亮は少し安堵した様な顔をして、さらに続けた。
「あの、士元は?」
「殿の元に行ってから、こちらに来るとおっしゃってました。私は、これを……」
趙雲は例の香炉を諸葛亮に差し出した。
香炉を受け取った諸葛亮は、様々に角度を変えて観察している。
思った通り、繊細な造りの香炉は諸葛亮の雰囲気に良く似合った。
「香炉、ですか?素敵な造りですね」
「差し上げます」
諸葛亮は香炉に向けていた視線を、パッと上げた。
普段からやや伏し目がちな瞳が、大きく開かれている。
「私に?」
戸惑い半分、喜び半分といった表情。
やはり香炉は諸葛亮の趣味にも合うのだろう。
――面白くない、実に面白くない。
あの気に食わない男が、諸葛亮の気に入る物を用意したというのが納得いかない。
「私からではありません。今日会った郭家の方から貴方に」
趙雲が憮然と言った瞬間、諸葛亮の顔がさっと曇った。
しまった、言い方が悪かったかと一瞬考えたが、趙雲の口調が悪いわけではないらしかった。
「そうですか……」
明らかに先程より声が低い。
諸葛亮がこんなに困り顔をするとは思わなかったので、言わなければ良かったと後悔したが、遅い。
「……あの方から言い寄られたそうですね」
「!」
趙雲の言葉に、諸葛亮はあからさまに動揺した。
本人になら聞いた事を言っても良いかと思ったが、失敗だったかと後悔した。
どうも裏目に出てばかりだ。
「だ、誰がそんな事を……」
声が震えている。
いつも張りのある凛とした声であるだけに、震えが目立つ。
「申し訳ありません、龐統殿にお聞きしました」
「龐統……士元に?」
諸葛亮はキョトンとした表情で趙雲を見た。
予想外の答えだったらしい。
今度は趙雲が驚いた。
龐統でないとしたら、他に一体誰がいるというのだ。
劉備にも言っていないという話ではなかったか。
――何か食い違いがある?
微かに趙雲は思った。
「いや、なら良いんです……」
諸葛亮はホッとした様に長い息を吐いたが、こちらとしてはちっとも良くない。
かと言って、あれだけ狼狽していた諸葛亮に問いただすなどは出来ない。
諸葛亮は手の内の香炉を、もて余す様に見ていた。
様々に角度を変えてはいるが、今度は別に観察しているわけではない。
この手に余る物を、どうしたら良いか決めかねているようだ。
「要らないなら、私に下さい」
「――えっ?」
「私が使わせて頂きます」
勿論嘘だ。
趙雲に香を焚く習慣は無い。
ただこの香炉が諸葛亮の元にあるという状況が気に食わなかった。
諸葛亮も扱いに困っている様だし、この際趙雲が貰って何が悪い事がある。
「はあ、まあ、どうぞ……」
諸葛亮がおずおずと差し出した香炉を、引ったくる様に受け取る。
繊細な造りであろうが、最早関係無い。
「では、失礼しました」
これ以上何を言えば良いか分からなかったので、趙雲は諸葛亮の部屋を後にした。
諸葛亮はただポカンと、趙雲を見送った。
「ん、あれ、趙雲殿?」
諸葛亮の部屋から戻る途中、こちらへ歩いてくる龐統に出会った。
ちょうど諸葛亮の部屋に向かう所で、入れ違いの形になった。
「龐統殿……」
「ん、その香炉。孔明に渡してと頼んだはず……」
「ああ……」
趙雲は小脇に挟んでいた香炉を前に出した。
「諸葛亮殿が要らない様だったので、私が頂きました」
半ば奪い取った形ではあったが、間違ってはいない。
龐統は別段驚いた様子もなく、趙雲の手の内の香炉をチラリと見やった。
「あぁそう、やっぱり喜ばなかったか。気を遣われましたな、趙雲殿」
「はて?」
「孔明が困ってるから、貰ったんでしょう?」
「…………」
半分は違うが、半分は確かに諸葛亮の為だった。
だがそれを認めるというのも、男としては些か格好が悪い。
故に趙雲は肯定も否定もせずに、ただ黙っていた。
「……趙雲殿は真面目だし、優しい良い方ですな」
「いやそんな、畏れ多い……」
「なのに何故孔明に嫌われているわけ?儂には分からんねぇ。本当に嫌われてるの?」
「…………」
その質問には趙雲も答えようがない。
龐統はいやはやと、頭を掻いた。
「まぁ奴はああ見えて人見知りだからね~。意外と嫌われてはないと思うよ、うん」
慰められているのだろうか?
しかし当の龐統は呑気そうに笑っていて、あまり真剣に言っている様ではなかった。
「んじゃ、儂は行くよ。今日はありがとう趙雲殿」
「いえ……」
龐統はヒラヒラと手を振って、趙雲の来た道を去って行った。
「………………」
趙雲は手の内の香炉を見た。
勢いで受け取ったは良いが、使い道もサッパリだ。
諸葛亮は、これがあの男からの物で無ければ、喜んで受け取ったのだろう。
諸葛亮の趣味らしいが、生憎趙雲の趣味ではない。
というより、これを自分が使っている姿が想像つかない。
龐統の事を笑ったが、趙雲も人の事は言えないようだ。
趙雲は香炉を上高くに掲げた。
透かし彫りになった香炉からは光が漏れ、キラキラと輝いている。
こんな風に見ても美しいのが、また一層腹が立つ。
なんだかイライラする。
趙雲はそのまま香炉を放り投げ、そのまま空高く上がった香炉は、一瞬のうちに地に落ちて、呆気ない程簡単に砕け散った。