軍師殿と私 聞こゆれど-5


一方、諸葛亮の部屋には龐統が訪れていた。

「士元、白湯でも用意させますか?」

「いや、出先で茶をご馳走になったから」

「そうですか……」

諸葛亮は龐統の向かいに座った。
机を挟んで諸葛亮と龐統は向かい合う形で座っている。

「どうでした?」

「我が軍に協力するって言ってた。税もちゃんと納めさせるって。最初は非協力的だったが、儂が龐家だと分かった途端、震え上がってたさ」

龐統はカラカラと笑い声をあげた。
つられて、諸葛亮も少し微笑んだ。

「昔うちが援助してた事が、こういう形で役に立つとは。人生何があるか分からんな」

「本当に、助かりました」

龐統の実家、龐家は荊州随一の大豪族である。
周りの豪族への影響力は計り知れない。

「いんや、結果的には儂が行った方が良かった訳だし。孔明に障りが無くてもね」

「…………」

「行かなくて正解だった。あの人まだかなりご執心みたいだったし」

「そうですか……」

諸葛亮は煩わしそうに長く細く、息を吐いた。
龐統はそんな諸葛亮の様子を観察するが如くまじまじと眺めている。

「趙雲殿に喋ってしまった、すまん」

短い沈黙の後、先に声を出したのは龐統だった。

「趙将軍から言われました。言い寄られたとかなんとか……人聞きが悪い言い方をしますね」

「でも事実だろう?そういう意味でも言い寄られたと」

「っ……」

弾かれた様に、諸葛亮は顔をあげた。

「士元、どうして。貴方にはただ……」

「ん~、会ってみた感触?あとあの香炉。部下に求める人材とはいえ、あんな小洒落た香炉は用意せんだろう、普通」

「…………」

諸葛亮はこめかみを指で抑え、肩を落とした。
体全体から疲労感を感じさせる。
顔色も良くなかった。
ただし、諸葛亮は元々血色の良い方でもない。

「冗談じゃないです……」

絞り出すような声で、諸葛亮が言った。

「なんと言われた?」

「貴方に言った通りですよ。『私の元で働かないか?』。ただ、視線と手付きに寒気がしただけです」

そう言うと諸葛亮は右手を逆の手でゴシゴシと触った。
右手を触られたのだろう。

「災難だったな、孔明。心情察する」

「……いや、これは実際我が身に降りかからない限り、この気持ちは分からないでしょう」

確かに、と言ってまた龐統は軽やかに笑った。
龐統の笑い声が、空気を少し和ませた。

「儂にはそんな災難一生あるまいて。整った顔に産まれた事を悔いるんだな」

「…………」

諸葛亮は人目を惹くような美青年……というわけでもなかったが、充分に整った顔はしていた。

「……こんな事は初めてか?」

「こんな事とは?」

「ほら、その、男に言い寄られるとか」

龐統の質問に、諸葛亮はすぐに答えなかった。

「……あるのか?」

まさかあるまいと思った上で龐統は言ったのだが、予想外の反応に内心驚いていた。
諸葛亮は以前山奥の田舎で妻と弟と、ひっそり暮らしていた。
そんな相手もいないと思ったのである。
諸葛亮は黙っていた。
少しの間黙ったまま何かを思い出していたようだが、やがて小さな声で答えた。

「いや、そういうわけではないのですが……」

「まさか、趙雲殿?」

「はあ?」

見るからに「何を言っているんだ」という諸葛亮の表情を見て、龐統は自分の考えが間違っていた事を悟った。

「いや、すまん。趙雲殿が自分は孔明に嫌われているのではないかと言ってたのでな。もしかしてそういう事があったのではないかと思ったのだ」

正直に龐統は答えた。

「いや、あの方とはそんな事はありませんよ……。向こうにも失礼でしょう」

「すまんすまん。だからちょっとそう思っただけなのだ。趙雲殿には黙っといてくれよ?」

「言いませんよ、そりゃあ」

自分に言い寄って来たと勘違いされていたと等と、相手に言う筈が、言える筈がない。

「でも実際、趙雲殿とはどうなの?」

「え?」

「嫌ってる?」

「……そんな事はないですが」

「……まぁ、良い人だしね。嫌う理由が無い。男前だし」

「…………」

龐統は今日初めて会った趙雲に、既に好感を抱いている。
基本的に人から嫌われる人間でもないとも思う。
勿論、諸葛亮にも。
龐統が認識している諸葛亮の嫌う性質にも、趙雲は当てはまらない。

「でも向こうは嫌われるんじゃないかって気にしてる。誤解させない様にしないとな」

「そうですね……反省します」

諸葛亮はため息をついて、肩を落とした。
その姿から、本当に反省しているらしいと分かる。
諸葛亮は昔からあまり周りと打ち解けられない性格だったし、本人もそれを自覚している。
しかし本人としても、多少はそれを改めたいと思う心があるのだ。
要するに、人見知りなのである。
器用だか不器用だか分からないこの友人が、龐統は嫌いではなかった。
だからこうして、柔らかく欠点を指摘してあげるのである。
龐統としても、諸葛亮がもっと周りと打ち解けられたら嬉しい。

「そだそだ、明日殿が儂を皆に紹介してくれるとさ」

「そうですか。……貴方ならすぐに周りと馴染めますよ」

自虐のつもりなのか、諸葛亮は少し哀しく微笑んだ。
龐統は何と返せば良いか、分からなかった。
龐統は確かに、諸葛亮よりは遥かに気さくで人当たりが良い。

――仲良くなれば良い奴なんだかなぁ。

諸葛亮の事を理解してくれる人間がもっと増えれば良いのにと思う。
一人の友人として、龐統はそれが残念で仕方がないのだった。



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