翌日、劉備から召集命令がかかった。
集められたのは、劉備軍の主だった将や、官など。
劉備の元から離れた場所に赴任している者にも、呼び出された者がいるらしい。
と言っても劉備軍自体が規模の小さな軍であるので、大した人数にはならない。
趙雲も勿論、その中にいた。
人垣の中に視線を巡らせると、諸葛亮もいた。
将達から離れ、文官の集まりの中にいる。
文官の中だと、一人背が高くて目立つ。
相変わらずの黒衣に羽扇、綺麗に結い上げられた髪。
本人は意識してはいないのだろうが、自然とその姿は視線を引いた。
趙雲は諸葛亮に話しかけようと思ったが、ちょうどその時劉備が部屋に入ってきた。
劉備の後について入ってきたのは、?統だった。
部屋中の視線が、一気に二人に集中した。
「皆、悪かったな。ちょっと皆に紹介したい奴がいてな」
劉備が大声で話し始めた。
劉備の声は良く通る。
部屋の中は大人数のために雑多としていたが、劉備の声は部屋中に響き渡った。
皆が劉備の声に耳を傾けている。
「こいつが?統。孔明の同門で、あの?家の一人だ。これからは孔明と同じ、軍師中郎将として働いてもらう」
「?士元です。よろしく」
?統は軽く、頭を下げた。
「多分これから皆に?統から命令がいく事があると思う。そういう場合は、しかとして従うように」
劉備はこれが言いたかったのか。
孔明が軍師として仲間に加わった時、色々と衝突もあった。
それを知っているが故に、劉備はわざわざ人を集めて自らの口で言い聞かせたのだろう。
静かに聞いている群衆の顔を見回して、劉備は満足そうににんまりと笑った。
「よし、皆聞いたな?それでは解散っ!!」
話し始めたと思ったら、すぐに解散。
無駄にだらだらと話はしない。
一部の者は戸惑っているようだが、古参の者は今更驚いたりはしない。
張飛や関羽は早速?統に話しかけている。
諸葛亮よりは馴染みやすそうだと思ったのだろうか、気さくに話しかけており、?統も朗らかに返している。
他の将達も二人に加わり、?統の周りはちょっとした人垣が出来ている。
趙雲はその輪には加わらなかった。
代わりに再び諸葛亮の姿を探した。
ちょうど一人、部屋を出ていこうという所だった。
趙雲は急いで追いかけた。
「軍師殿!」
部屋を出て少し歩いた所で、諸葛亮は捕まえた。
言って、趙雲はしまったと思った。
もう軍師殿と呼んではいけない。
「あ、あの……諸葛亮殿」
諸葛亮は驚いた顔で趙雲を迎えた。
諸葛亮も呼び名の変化に気付いたのだろう。
いきなり名前で呼んでは失礼だっただろうか、と後悔の念がよぎる。
急に照れ臭さを感じた趙雲は、諸葛亮が何か言い出す前に、先手を取って続けた。
「すいません、失礼でしたでしょうか」
「……孔明で良いですよ」
「え?」
「……孔明で良いです」
孔明で良いと、確かに言った。
小さな声ではあったが、間違いなくそう聞こえた。
「こ、孔明……殿」
趙雲が確かめる様に呟くと、諸葛亮は少し恥ずかしそうに小さく頷いた。
「それで良いです。……あの、それで、何用でしょうか」
「あ、はい、あの……渡したい物がありまして!」
「渡したい物?」
「えっと、これを!」
趙雲は懐の中から、袋を一つ取り出す。
簡素だが、綺麗に包装された小さな袋。
諸葛亮の瞳が、興味深そうに袋へと注がれる。
二人の側を、部屋から出ていく人々が通り過ぎていくが、誰も二人を気にしてはいない。
朝特有の爽やかに冷えた風が、趙雲の顔を撫でた。
「香木です」
「……香?私に……?」
趙雲は頷いた。
諸葛亮は驚いている。
ただひたすらに驚いている。
何をそこまで驚く事があろうか。
思った以上に驚いているので、むしろ趙雲の方が戸惑った。
それほど自分が何か贈るという事が意外だったのだろうか。
額から微かに汗が流れたが、心地好い風がすぐに乾かしていく。
差し出された小さな袋を、躊躇いがちな諸葛亮の手が、おそるおそる受け取った。
「私に、香を……」
繰り返し、諸葛亮は呟く。
少し戸惑っている様にも見える。
「迷惑でしたか?あの、昨日の香炉のお礼をと思いまして。いや、本当は代わりになる香炉をとも思ったのですが……」
香炉のお礼に香炉を、というのはおかしな話なのだが、なんとなく対抗して香炉を贈りたくなったのだ。
しかし良く良く考えてみれば、あの諸葛亮に贈る様に拵えられたのであろう凝った意匠の香炉より良い物を見付けられる筈も無い。
ならばせめてと思って趙雲が買い求めたのが、香木だった。
だが趙雲は香に詳しくもなければ、諸葛亮の好む香りも知らない。
買ってから何と浅はかな考えだったのだろうと、後悔。
しかし買った以上は渡さなければ勿体ない。
なかなか値の張る品を、趙雲は買い求めたのだった。
「お気に召す物ならば、良いのですが……」
諸葛亮は袋の口を広げ、中身の香りを嗅いだ。
辺りにはほんの微かに、芳香が漂う。
良い香りなのは間違いないが、いかんとも形容しがたい。
「……私の普段使っている物とは違いますね」
ああ、そうだろう。
今香ってきた香は、確かに諸葛亮の部屋で嗅いだものとは違う。
香木が色々と置いてある店内では、余り良く分からなかったのだが、今なら分かる。
「申し訳ありません!なにぶん、香には疎く……」
「何故謝られるのです。貴方はこれを下さる方なのに」
「しかし……お気に召さない物を渡してしまっては……」
「……嫌いではありませんよ。ええ、嫌いではありません。むしろ……いや、たまには違う香りも良いものです」
「そうですか?」
一先ず、胸を撫で下ろす。
しかしなんて自分は気が利かないのだろうと思う。
今までこんな風に、異性に何か贈るという経験はなかったせいだろうか。
いや、諸葛亮は女ではないのだが。
とにかく趙雲は、今まで男女問わず誰かに何かを贈り物をする、という機会を持たなかったのだ。
この年になって突然、相手が喜びそうなもの、気の利いたものを用意せよと言われても、一筋縄にはいかないのが現実だ。