軍師殿と私 聞こゆれど-7


「気が向いたら……焚いて下さい。気が向いた時に……」

受け取ってくれただけで充分、という気がしていた。

「ありがとうございます」

「孔明殿……」

「是非、眠る時にでも焚かせて頂きます」

そう言って、諸葛亮ははにかみながらふわりと微笑んだ。

「っ……」

――笑った!

笑みらしい笑みを、初めて目にした気がする。
ただ微笑んだだけの事なのに、昨日色々と駆けずり回って香木を買い求めた苦労が、それだけで報われる想いだった。
しかしいざ笑いかけられると、趙雲の方が戸惑ってしまう。
軽く狼狽しているのが、自分でも分かった。
人であれば誰だって笑う事があるだろうに、諸葛亮のそれは思いがけない程趙雲に衝撃を与えた。
それだけ趙雲の中で、笑う諸葛亮とは珍しい光景だったのだ。

「い、いえ、どういたしまして……」

やっとの事で、この一言を絞り出す。
ここで気の利いた一言でも言えれば良いのだろうが、正直な話それ所ではなかった。
とは言え、冷静な時でも気の利いた言葉が出るかどうかは、別の話であるが。

「この香を焚いて眠ったら、また貴方の夢を見てしまうかもしれませんね……」

ふ、と微かに笑って諸葛亮は言った。

「こっ……」

何という事を言うんだろうか、と思った。
その件は趙雲もすっかり忘れていたのに、諸葛亮の方から蒸し返すとは意外だった。

「そ、それは、申し訳ありません……」

趙雲が言うと、諸葛亮のくすりと笑う声が落ちてきた。

「誰がどんな夢を見るかなど、基本的には不可抗力なのですから。貴方が気負う必要なぞありませぬ」

諸葛亮は想えば相手の夢の中で会いに行ける、とは信じていないようだ。

「ですが、それでも……」

「……私は、貴方の夢を見る方が良いです」

「えっ」

どういう意味だ。
趙雲はハッとした気持ちで諸葛亮を見たが、諸葛亮の表情は暗い。
なにか切実な理由があるらしいと、すぐに悟った。

「……夢見が凄く悪くて。貴方の夢を見るならば、いつもの悪い夢を見ずに済む……」

「そうですか……」

なんだか少し肩透かしをくらった気分ではあったが、夢見が悪いというのは穏やかではない。
諸葛亮がいつも疲れている感じがするのは、良く眠れないせいもあるかもしれない。

「ならば、私の夢を見て下さい」

「ええ、そう出来れば良いんですけど」

諸葛亮は困った様に笑った。
先も言った通り、どんな夢を見るかは不可抗力。
諸葛亮が見ようと思って、夢を変えられるわけではない。

「私に出来る事は無いですかね……。香で良ければ、いつでもまた用意します」

「香を替えて効果があるかどうかは、まだ分かりませんから」

「ああ、そうですね」

自分で役に立てる事が無いのが、歯痒い。
何かしてやれる事があれば良いのに。

「……趙将軍は、お優しいですね。こんな事にまで親身になって下さるなんて。士元も貴方を良い方だと褒めていましたよ」

「いや、そんな事。私は主騎ですから」

「主騎?」

「貴方を護る事が仕事です。例え、貴方の夢の中でも」

「…………」

諸葛亮が目を見開く。
少し気障だったか。

「……仕事熱心ですね、趙将軍は」

言い方は皮肉めいている様だが、表情は柔らかい。
笑っている。
言って良かったと思った。

「いえ、当然です。あと、孔明殿」

「なんでしょう」

「子竜で良いです。子竜とお呼び下さい」

「…………」

再び、諸葛亮の目が大きく開かれた。
趙雲も諸葛亮を字で呼んでいるのだから、この申し出はおかしくない筈だ。
そう思って、趙雲は言った。
今の所諸葛亮が字で呼んでいるのは、徐庶や龐統など、元からの知り合いしか知らない。
だとしたら、字で呼んで貰えれば、周りとは一歩差がつくのか……?
なんだか、それも悪くない。

「……子竜殿、ありがとう。この香、大切に使わせて頂きますね」

諸葛亮は、香の入った袋を掲げ、笑った。
そして背を向けて、そのままゆっくりと去っていく。
香の薫りだけが、諸葛亮の立っていた場所に残る。
趙雲は一人立ち尽くした。
動かない、いや動けない。
香の薫りは、風が吹く度に薄くなった。

「しりゅうどの……」

己の字を、というより諸葛亮の言葉を繰り返した。
子竜、確かに字で呼んだ。
ただそれだけの事が、やたら趙雲の心を掻き乱した。
どうしたものか。
言われ馴れている筈なのに、いつもと違う。

――一体私はどうしたいと言うんだ。

自問自答するが、答えはでない。
いや、本当は最初から答えは出ているかもしれない。
答えはあるのに、それを知るのが恐ろしいような――。
知ってはいけない、そう遠くで誰かが警鐘を鳴らしている。
しかし実際は、答えの存在に気付いてしまった時点でもう遅い。
その気持ちが何か分からなくても、なにやら思い通りにならない気持ちに気付いた時点で、半分は勝負がついている。
その警鐘に耳を貸すかどうか……それは最早問題ではないのだ。

「いや、本当にどうしたいんだ……私は」

じっと立ち尽くす。
俄に吹いた強い風が、その場に微かに残った薫りをかき消していった。



〔終〕







いい加減進展しろよと

ちなみに孔明は集中出来るからとか実用的な理由で香を焚いており、この薫りが好きだとか好みやこだわりがあるわけではありません
だから趙雲もそんな気にする必要もなかったのよ…

タイトルは相手の心、自分の心に耳を傾けようとはするんだけど…という意味
その他に香の香りを嗅いだり判別したりする事を「聞く」と言うそうです
三国時代から使われている表現だそうで、曹丕も文章に残しています
↑この表現を使いたかっただけとも言う

冒頭の漢詩は菅家文集に収録されている菅原道真の漢詩です
本編が香にまつわる話なので香を詠んだ漢詩を持ってきたかったのですが…
香の香りを詠み込んだ漢詩が以外に少なくて焦りました(^-^;
ちなみにこの漢詩の訳は私が訳したものですが、他にも訳し方がある作品です
「独り断腸」を、「私の詩がずば抜けて優れていた」か、もしくは私が訳したように「孤独に寂しさを感じている」か…2パターン訳し方があります
私は後者派なので後者をとりました
断腸は辛いというだけでなく、非常に優れる…という意味もあります
ちなみに九月十日は九月九日に長陽の節句が出来なかった(月が見えなかったとか)から翌日に宴を開いたからだそうな



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