「あれが目的地?」
尚香が河岸を指差して言う。
その先には、既に迎えの一帯が趙雲達の船を待っていた。
「はい、そうです。下船の準備をそろそろ」
尚香は聞いているのかいないのか、さっさと侍女達の方へ行ってしまった。
まこと自由奔放である。
「孔明もいるねえ」
「え?」
龐統の言を聞いて陸を見ると、確かに兵達の中に黒い道衣を羽織った孔明の姿が見えた。
反射的に手を振りそうになったが、振り替えしてくれそうもないので咄嗟に手を下ろした。
そんなこんなで、船は無事に着岸した。
「では孫姫を……」
と言いかける間に、趙雲の前をサッと小さな影が走りすぎた。
まさかとは思ったが、案の定尚香である。
船内の誰よりも早く船をかけ降りた。
かえすがえすも、姫の身分の者のやる事ではない。
「お出迎えありがとう」
突如現れた小娘の姿に、流石の孔明も驚きを禁じ得ない様子。
「……貴女は?」
「じゃあ聞くけど、貴方達は誰を待っていたって言うの?」
「……まさか、孫姫であらせられますか?」
いかにもと、尚香は満面の笑みで頷いてみせる。
孔明は二の句が続けない。
噂は聞いていたが、まさかこれ程までとは。
おまけに聞いていた年より若干幼くも見える。
ただでさえ劉備とは常識外の年齢差だというのに、余計夫婦に見えそうにない。
一、二回咳払いをしてから、気を取り直して切り出す。
「……あちらに馬車を用意させてございます」
「馬車は結構。馬を連れてきたから」
はい?と孔明が問い返す前に、船から馬が下ろされてくる。
確かに名馬だ。
江南では中々手に入るまい。
馬を牽いているのは尚香の侍女だろうか……尚香と同じく、男の様な軽装をしている。
何から何まで、孔明には予想外の光景だった。
「孔明、ここは言う通りに」
「士元……」
「言い出したら聞かないんだ、あのお姫様は」
龐統は声を抑えずに言うが、言われた尚香の方も気を害した素振りもない。
むしろ、分かった?とでも言わんばかりの顔だ。
「……分かりました。お好きな様に」
「ええ、ありがと」
尚香は承諾を得るや、颯爽と騎乗する。
流石になれたもの、そこらの男より身軽である。
「孔明殿……」
やっと船を降りてきた趙雲がおずおずと話しかける。
「子竜殿。……あの、向こうからあのご様子で?」
「いかにも……」
「…………」
孔明は頭を抱えた。
趙雲も正直、頭が痛い。
「何をなさるか予想がつきません。お手数ですが、よく見張っておいて下さい」
「はい、そのつもりですが……」
「……何か?」
「いや、孔明殿でも予想がつかない事もあるのだなと思いまして」
趙雲がくすりと笑うと、孔明は困った様子で顔をしかめた。
「ああいう手合いの人間は、一番分かりません」
あまりマジメに言うものだから、思わず笑って返しそうになったが、尚香が今にも出発せんとしているのが見えて、慌てて後を追う。
趙雲が急いで馬に乗ると、周りの者達もバタバタと出発し始めた。
孔明と龐統は、行列の後ろの方をゆっくりと進んだ。
「孫姫、勝手に進まれては危ないですよ」
趙雲が尚香に追い付いて言う。
尚香も馬の扱いはなかなかだが、趙雲には敵うべくもない。
「私をお嬢様扱いするのはやめて欲しいわね」
「ですが、これからは劉備様の正妻となられるお方です。万が一何かあれば困りますので」
趙雲が言うと、尚香は途端に不機嫌になって急に駆け出した。
一歩遅れて趙雲も追う。
あっさり趙雲に追い付かれたのがまた癪に触ったのか、尚香は更に速度をあげる。
勿論趙雲も後をつける。
その繰り返しで、予定よりあっという間に宮殿へと着いた。
だが、後続はほとんど脱落している。
「や、やるわね……」
息を切らした尚香が趙雲に言う。
趙雲の方は特に疲れた様子もない。
尚香とはやはり鍛え方が違うのだ。
「孫姫、勝手に駆けさせては後続はついて来れません。以後はこの様な勝手な真似は……」
「わ、分かったわよ」
「あれ、子竜。もう着いたのか?予定より随分と早いな」
思いもかけぬ声。
劉備の声だ。
いつもより多少着飾った劉備が、こちらに歩いて来る。
張飛と関羽の二人も一緒だった。
「劉備様」
「りゅうび?」
騎上したままの尚香が、ピクリと反応する。
劉備も尚香の方に気付いた。
「ん、誰だその女の子」
「ッ!!」
「姫様!我々を置いていくなんてあんまりですわ!」
やっと後続がチラホラ現れ始めた。
尚香の侍女達の姿も見える。
「孫姫って、まさかこの娘ッ子がかあ!?」
たまげたと言わんばかりに声をあげたのは、勿論張飛である。
その張飛の発言に、尚香は即座に噛みついた。
「何が娘っ子よ!私が孫尚香。文句ある!?」
予想外の凄い剣幕に、張飛は勿論劉備達もたじろぐ。
張飛に対してこの物言いとは、見上げた度胸ではある。
趙雲は内心、予想外の光景が可笑しくてたまらない。
「ほー……。話には聞いてたけど、これ程とは」
次に口を開いた劉備にも、尚香は思いっきり睨み付けた。
「どうせ男勝りのじゃじゃ馬って言うんでしょう!?ふん、言っておくけどね!私はアンタなんかの妻になった気なんて全然ないから!!」
「なっ……」
こればっかりには、一同も呆気にとられる。
趙雲も思わず絶句した。
仮にも嫁入りに来た娘が切る啖呵ではない。
そんな周囲の茫然ぶりにも意も介さず、更に尚香の気炎は凄まじかった。
「ここならうるさいお兄様がいないからちょっと来てやったってだけよ!そういう事!」
言い終わるや、尚香はまた馬を進ませる。
趙雲達は皆ポカンとして尚香の後ろ姿を見送る他無い。
「ちょっと!私の住まいにだれか案内しなさいよ!」
尚香の怒号に、下仕えの女達が慌てて先導を始める。
そのまま尚香は侍女達を連れて、去って行ってしまった。
「…………」