嵐が去った静けさか、誰も言葉を発せずにいる。
結婚の為に劉備軍へ来たのに、妻になった気は無いときた。
あまりの事態に皆々顔を見合わせている。
その頃ようやく、遅れていた孔明と?統が到着した。
「あんまり急ぐのはやめて欲しいねぇ。馬を操るのは得意じゃないんだ」
「皆様お待たせしました。……ん?」
二人とも、場のただならぬ空気を敏感に感じ取った。
「どうしたのです、殿までお集まりなさって。それに孫姫は何処へ?」
「……孔明……」
ようやく口を開いたのは、劉備。
あんたに嫁いだつもりはないとまで言われてしまった、婿どのである。
周りの者等も、なんと声をかけるべきか分からないくらい、面目を潰されている。
「あの娘、思った以上だな。次兄じゃなく長兄に似たな、あれは」
「お会いになられたのですね?私も同感でございます。して、その娘御は?」
「行っちまったよ」
想定外の遭遇だったとはいえ、婿を前にして立ち去ったとは、釈然としない。
孔明も?統も顔を見合わせた。
「おまけに私の妻になったつもりは無いんだと」
「えっ!?」
「口うるさい兄がいないから来てやったんだそうだ」
「…………」
孔明は絶句。
一方で?統は、多少予想はしていたのか、ヤレヤレといった表情だ。
「……はぁ、まぁ……この際、それでも構いませんか」
「えっ」
暫く黙っていた孔明が次に発した言葉に、一同は唖然とした。
劉備と?統だけが、うんうんと頷いている。
「形だけでも結婚が出来てれば構わないと思うね、うん」
「正直こんなオヤジと結婚させられちゃたまったもんじゃないだろうからなぁ~」
そんな事で良いのか!?と皆が一瞬思った事だろう。
だが主君と軍師二人が口を揃えてこう言っているのだ。
多分それで良いんだろうと、なんとなく納得した空気が流れた。
「とは言え、建前上は殿の妻君であらせられないとなりませぬ故、勝手な行動は許されません」
「だな。子竜!」
「はっ、ここに!!」
「お守りを頼むぞ」
「御意……えっ!?」
今度は皆一同にうんうんと頷いている。
この空気は最早覆せない。
趙雲は尚香の監視役を任されてしまった。
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「ついて来ないでよ!!」
思った通りというか、尚香の反応はあまりに趙雲の予想通りだった。
「護衛として、貴女の側を離れるわけには……」
「だからってもうちょっとやり方があるでしょう!?こんな常に視界の中にいるなんて……女の子に対して失礼だとは思わないの!?」
こんなあられもない格好をして、馬を乗り回りしてるのに何が女だ……と思うのは仕方がないというものだ。
だがここで言い返しては余計反発をくらうだけだろう。
何をしでかすか分からない反面、上手く扱えば御しやすそうな所は助かる。
趙雲はただ黙々と任務をこなすのみ。
「これが私の仕事ですので」
仕事だと割り切ってしまえば、何と言われようが我慢できる。
趙雲は仕事の出来る男である。
「哀しいわね、仕事人間は。そんなんじゃ恋人も出来ないでしょう」
「…………」
「もしかして、私の事が気になったり?」
「なっ……!」
……平常心平常心。
この娘の調子に流されてはいけない。
向こうもわざと趙雲が怒りそうな事を言っているのだ。
「ご主君の妻君にその様な事、万が一にもございません」
「妻君じゃないってば!!」
尚香は子どもの様に頬を膨らまして拗ねる。
こういう所は、微笑ましくて可愛い。
顔も充分に綺麗な造りをしているのだが、妻にとなったらやはりどうかと思ってしまうが、それはあくまで趙雲の嗜好の問題である。
趙雲としては、なんだかんだで劉備とは似合いなのではないかと思う事もある。
勿論、主君の妻君としてはもっと落ち着いた才女が相応しいのだろうが、単純に劉備の雰囲気に合う様な気がした。
劉備も生まれのせいか、令嬢というよりは元気で庶民的な女を好むのだ。
「でも正直同情するわよ。こんなじゃじゃ馬のお守りなんてさせられてね」
「……その様な事は」
「本当だったら、もっと自由に時間を使えたのに。貴方モテそうだし、残念ね」
「……その様な事は……」
「ふふ、嘘が下手ね。その分じゃ凄い女泣かせだったりして!」
確かに趙雲は嘘をついたが、モテる云々の方ではない。
時間を制約されるのが歯痒いという方だ。
決して楽をしたいわけではないが、尚香を一日中見張るというのは流石に骨が折れた。
護衛には慣れている趙雲だが、こんなに長い時間女性につくのは経験が無い。
女性相手では勝手が違う。
……そう、趙雲もやはり女性相手に気後れしているのだ。
いかに仕事と割り切っても、完全に割り切れる筈がない。
「かっこいいし背が高いし、モテるわよねー」
なおも尚香はからかうように言った。
「……ご想像にお任せします」
趙雲がのってこないので、尚香はつまらなそうにため息をついた。
かと思うと、次には顔を輝かせて趙雲の顔を覗きこんだ。
「ねぇ、暇なら武芸の稽古つけてくれない?」
「え?」
「どうせ私についてなきゃいけないなら時間を有効に使いましょうよ。私もそれなら文句無いし」
主君の妻君に武芸の稽古をつける武将がどこにいる。
これ以上じゃじゃ馬ぶりに拍車をかけるのもどうかと思われた。
「妻君におかれましては、詩歌管弦のタシナミをですね……」
「するわけないでしょ!!」
小柄を投げられた。
が、趙雲はなんなくかわした。
というか、一応こんな女らしい物を持っていた事に驚いた。
髪を結う以上、男でも携帯する者は多いのだが。
「流石の反応ね……この距離でかわすなんて。お願い!稽古つけてよ!」
「私の立場もあります。何卒ご勘弁を」
「お願いってばぁ!!」
「……仲が宜しいようで何よりでございます」
「きゃあっ!!いきなり何よ!」
趙雲も驚いた。
いつの間にか孔明がすぐ後ろに立っていたのだ。
「軍……孔明殿」
ようやく最近字で呼ぶ事にも慣れてきた。
呼ばれた孔明の方は、横目で趙雲を見ながら小さく頭を下げた。
「殿に言われて参りました。姫君に手習いをつけて差し上げろと」
どうやら尚香の考えそうな事は、劉備にもお見通しだったらしい。
武芸の稽古等を始める前に、先に課題を押し付けてしまおうという事か。
「それで孔明殿をわざわざ……」
「相手が姫である以上、教える人間が誰でも良いというわけにはまいりません。そもそも、我が軍には学がある者が少ないし……」
孔明はなんで私が、と言わんばかりにため息をついた。
孔明にだってやらなければならない仕事があったろう。
「ホウ統殿は……」
「彼は師には向きますまい」
納得。
孔明にひけをとらない才子ではあったが、勤務態度はお世辞にも立派とは言えまい。
「で、何なのよ手習いって」
「書でも読もうと考えておりましたが、お望みとあれば楽器でも」
「孔明殿は……何かお弾きになられるので?」
「琴ならば手慰み程度に」
士たる者、楽器の一つはこなせないとならない。
とは言え、孔明が何か爪弾く姿は一度も見た事が無かったために、驚いた。
それに何より、孔明が楽を好むというのが意外だった。
暇な時は書を読んでいる姿しか思い付かない。
「そんなに意外ですか?私が楽器を扱うのが」
よほど顔に出ていたのだろうか。
孔明は怪訝さと蔑視がない交ぜになった様な顔で趙雲を見た。
「確かに私は風流人とは程遠いですが……これでも釣りもたしなみます」
「釣り……」
太公望のイメージが重なるのか、琴よりは幾分か孔明に似合う気がした。
「……って、姫君は?」
「えっ!?」
二人が話し込んでいるうちに、当の孫尚香は忽然と姿を消していた。