「私を無視して話すんだから、ザマーミロだわ」
孔明と趙雲を撒いた尚香は、行く宛もなく宮殿内をさまよっていた。
「手習いなんて、こりごり」
呉にいた頃から、勉強や楽器は嫌いだった。
男勝りと言われても、野原を駆け回る方がずっと好きだった。
大体、何のためにそんな事をしなければならないのか分からない。
結婚のため?
男を喜ばせるため?
そんなの糞喰らえである。
そんな事のために、したくも無いことを強要されるなんてごめんだ。
イライラしながらズンズンと前を進んでいると、刹那バランスを崩した。
林の中を掻き分けて進んでいたのである。
つい木の根に足を取られて、なんとか前に倒れまいとした所逆に後ろに倒れてしまい、盛大に尻餅をついた。
「いったーっ!!」
「誰かいるのか!?」
しまった、誰かに見つかった。
このまま隠れて侵入者と勘違いされたら敵わない。
孫尚香は潔く植木から身を現す。
「私よ、孫尚香よ!剣なんて向けたらただじゃおかないから」
しかし、尚香が顔を上げた先には、武装した兵などいなかった。
そこには思いもがけない人物が一人――劉備である。
劉備が一人、庭先に筵をひいて、縄を編んでいる。
――縄?
俄には信じがたいが、尚香にはそうとしか見えなかった。
「ああ、孫家の姫さんか」
「……何をしてるの?」
思わず、尚香は訊いていた。
「見ての通り、縄を編んでるのさ」
それは分かる。
問題は、劉備の様な身分の者は普通は縄は編まないという事である。
そんな事は、身分の低い百姓風情がやる事だった。
「なんでそんな事するの」
「趣味だな」
劉備は平然と答える。
喋っている間も休まず動かされる手は、驚く程に器用だった。
「趣味!?そんな浅ましい真似が趣味なんて」
「女だてらに馬を乗るのが趣味ってのと、おかしさではどっこいだと思うがね」
「なんですって!?」
「はは、冗談冗談。私自身これが仮にも一城の主のやる事じゃあないと思うさ」
劉備がカラカラと笑うので、尚香もサッと立ち上った怒気のやり場に困る。
しょうがないので怒りはひっこめた。
「でもたまにはこうやって、何も背負ってない身軽な頃の真似をすると、楽になるんだよ」
「何も背負ってない……身軽な頃……」
尚香も知っている。
劉備は身分も家柄も財も土地も無い庶民の上がりだと。
多くの者は、それを理由に劉備を嘲った。
だが尚香には――
少しそんな身分に興味があった。
尚香もたまに思う事がある。
庶民の娘に産まれていれば、もっと自由にやりたい事をやれたのだろうかと。
「その頃って……どんな感じだったの?」
「聞きたいか?別にどこにでも転がっている、つまらない身の上さ」
「聞きたい」
どこにでも転がっているというそれに、尚香は触れた事が無かった。
「じゃあ立ち話もなんだから、こっちに来て座ったらどうだ?」
劉備は自身の座る筵を示した。
劉備が少しつめれば、筵はもう一人座るのには充分な大きさだった。
「ん」
尚香は言われた通り劉備の隣に腰をおろした。
地べたに筵を敷いただけの状態に座る事も、尚香にはあまり経験の無い事だった。
「この筵も私の手作りなんだぞー?」
「えっ、凄い。器用なのね」
「まぁ仕事だったからな!」
劉備はまた、口を大きく開けてカラカラと笑う。
異性とこんな隣り合わせに座るのは、兄や周瑜以来だった。
最近では兄ですら、体温の感じる距離に座る事はない。
劉備は兄達や周瑜にも、全然似ていない。
それなのに何故か懐かしく、落ち着いて感じられるのが不思議だった。
「あっ、あんな所に」
「殿と……ご一緒の様ですね」
趙雲と孔明の二人は消えた尚香を探して、暫く捜索を続けていた。
それがまさか劉備の所にいたとは。
なるほど、なかなか見付からないわけだ。
「あんなに殿を嫌ってらっしゃる風でしたのに、何やら楽しげに会話をされてますね……」
二人は茂みの奥から、尚香達の様子を観察する。
筵に仲良く腰かけて、なにか話しているようだ。
会話の内容は聞こえないが、時折笑い声が聞こえてくる。
「……このまま、そっとしときましょうか」
その微笑ましい光景を壊すのは、趙雲には憚られた。
「でも貴方の仕事は姫君の護衛なのでは……」
「あっ……。じゃあ、ここから二人を見守ります!」
「……じゃあ私は帰って良いですかね。仕事に戻ります」
「えっ」
確かに護衛の趙雲はともかく、勉強をみる筈だった孔明はこの状態ではいかんとも手持ち無沙汰である。
「えと、いつ会話を終えられるか分かりませんし、ここでお待ちになっては……」
「……当分終わりそうにないのですが」
とは言いつつ、孔明は上げかけた腰を、再び下ろした。
一緒にここにいてくれるらしい。
最近は少し、孔明にも打ち解けられたんじゃないかと思っている。
「……なんですか?」
「え?」
「ヘラヘラなさっているので」
ヘラヘラなさるという言い方も珍しい。
とにかく顔に出ていたらしいので、奥歯を噛み締めた。
「何を話しているんでしょうかねえ」
「お二人の共通の話題など、思い付きませんが……」
本当は、どんな内容でもどうでも良かった。
尚香と劉備が、仲良さげに話している姿が見れるだけで、趙雲は嬉しく思った。