翌日、尚香は大人しく部屋にいた。
雨が降っていたせいもあるだろう。
朝からジメジメとした、空気の重たい日だった。
「おはようございます」
趙雲が部屋に入ると、尚香はムスッとして趙雲を睨んだ。
ちなみに、護衛とはいえずっと部屋で一緒にいるわけではない。
朝最初に一度、朝の挨拶をするだけの事だ。
挨拶が終われば、すぐに出ていくつもりだった。
だったのだが、尚香の顔色を見て趙雲は続けた。
「今日はご機嫌が優れぬようですが……」
「あんたに怒ってるのよ!!」
……ああ、そうだった。
昨日あのまま尚香と劉備の二人を見守っていたのだが、話が終わって尚香が帰ろうとするや、思わず趙雲は姿を現してしまった。
それで、ずっと観察していた事がバレてしまったのである。
我ながら迂闊な事をしたと思う。
劉備はなんとも思った様子では無かったが、尚香の方は照れやら怒りやらで顔を真っ赤にして、趙雲達を置いて一人部屋に戻ってしまった。
その後の孔明の侮蔑の目が、未だに思い出されて胸が痛む。
「申し訳ありません……」
「……もういいわよ。機嫌悪いのはほんとだし」
尚香はため息をついて、窓の外を眺めた。
外では規則正しく雨が、地を叩く音を鳴らしている。
「……私、何のためにここに来たんだろう」
「え?」
珍しく感傷的な声に、趙雲は驚いた。
尚香の透けるような青い瞳が、今日はややくすんで見える。
「『形だけの結婚だから私を夫だと思う必要はない。こんなジジイと結婚だなんて、あまりに不憫だったが、その分好きにして良い』って……」
尚香が思い出すように言う。
劉備の言葉だろう。
昨日あの場所で語ったのだろうか。
「私、別に妻として求められてないんでしょう?なら私は何のためにここにいるのかなって……」
「…………」
尚香からこんな言葉が出るとは意外だった。
昨日までむしろ、正反対の事を言っていたのに。
「劉備様が妻だと思ってくれない事が、哀しいのですか」
「ちっ、違うわよっ!!」
慌てて否定する姿が、年相応の娘らしくて可愛らしい。
趙雲は思わず笑ってしまった。
尚香は不機嫌に頬を膨らませてそっぽを向いた。
「ならば向こうから妻にしたいと思われるようになされば良いのでは……」
「えっ?」
「劉備様に好かれる様になされば良いのではないでしょうか……。いや、烏滸がましい口で恐縮ですが」
大した助言も与えられない自分が情けない。
男女の事はあまり得意ではないのだ。
尚香が、ため息をつく。
「好かれる……か。好きってなんなんだろう。私恋とか……良く分かんないし」
それはそうだろう。
君主の妹が誰かに恋をする機会など、与えられるはずはない。
恋をした所で、叶わない事が大半なのだから、しない方が良い。
「貴方は好きな人いる?」
「えぇっ、私ですか!?私は別に……」
こんな若い娘となんの会話をしてるんだろうと、我ながらおかしい。
「……これが恋なのかも分かんない。昨日まで何とも……むしろ嫌いだった人をそう思うなんて……ありえるの?」
趙雲からすれば、尚香の表情は恋に悩む乙女そのものなのだが、尚香自身はいまいち自信が無いらしい。
「一つの機会で、その人の印象が全く別のものに変わってしまう事はあります。良くも悪くも」
「…………」
「私も貴女のご心情は分かりませぬが、劉備様は貴女の夫です。それが今は形式だけだとしても。それでも夫を好きになれると言うのは……幸福だと思います」
「幸福……」
「好きになって良い相手ばかりを好きになれるわけではありませんから。だからとりあえず今は……その想いを大切にしてみたらどうでしょうか」
尚香が本当に劉備に好意をもっているのかは分からないが、政略結婚の相手を好きになれるのなら、それはどんなに幸福な事だろう。
だから、その好意が真実になるように、今は淡い気持ちを育むのが良いのではないかと思う。
趙雲だって、劉備尚香夫妻が、仲が良い方が良い。
「そうね……」
尚香は憂いが晴れたのか、スッキリとした顔に戻った。
この娘には、やはり明るい表情が似合う。
「あの……」
「きゃっ!!何よまたあんた!?」
尚香の視線の方向を見ると、そこは部屋の入り口で、孔明が立っていた。
「そんな事言われましても、貴女の勉強を見る事が私の仕事ですので……」
そう言えばそうだった。
趙雲がここへ来るように、孔明もここへ来なければならない。
しかし、いつからそこにいたのだろうか。
先程の話を聞かれていたら……猛烈に恥ずかしい!
「孔明殿、いつからそこに」
「少し前から。何やら真剣に会話をされている様でしたので、入るのには憚られて……」
「では、我々の会話を……」
「会話の内容までは……姫君っ!!」
いつの間にか、尚香はまた二人が会話しているのを良いことに、こっそり抜け出そうとしていたらしい。
しかし、同じ手を何度もくう孔明ではない。
「勉強なんてイヤよ〜……」
「劉備様に好かれる様に頑張るのも良いじゃないですか、ね?」
「玄徳様は私は元気で活発な所が良いって言ってくれたもん!!」
言い放つや、矢の様に部屋を出ていった。
まさか劉備を気に入ったのも、その言葉のせいなのか!?
「あ、ちょっと!」
呼び止める間も無く、尚香の姿はあっという間に消えた。
趙雲はハァとため息をつく。
「恐らく殿の所だと思いますが……」
「殿の?何故?」
「昨日の一件で殿の事が気に入られたらしいです」
「……あんなに嫌がっていたのに、信じられない」
「そんなものですよ、人というものは」
かく言う趙雲も、あの船上でのやりとりを境に、孔明への印象がガラリと変わった。
決してありえない事ではない。
「とりあえず追いましょう。一応、それが仕事ですから」
孔明は面倒臭そうに言うので、二人はやれやれと部屋を出た。
確証は無いが、劉備の所にいるものと思って、向かう。
「そうだ、孔明殿。今度琴、聞かせて下さいませんか」
「……人に聴かせるようなものでは」
「でも、人に手解きできる程でありましょう?」
「……まぁ、構いませんが……あまり弾ける曲はありません」
「私なんてろくに知っている曲はありませんよ。孔明殿は、例えばどんな曲を弾くのですか?」
「……そうですね、『梁哺吟』とか」
当然だが、聞いた事の無い曲だった。
「私が作った曲です。というか、元からある民謡を私が編曲したというか」
「そんな事まで出来るのですか!?」
「大した事ではありません。歌詞のついた民謡を、琴で弾ける様にしただけです」
それにしたって、趙雲からすれば凄い。
「……少し、唄ってみましょうか」
「えっ、ぜひ」
意外な申し出だった。
言った孔明本人が、少し恥ずかしそうにしているのがなんというか……ちょっと可愛い。
孔明は小さく、ようやく聞こえるくらいの大きさで、歌い出した。
聞いてみれば、聞き覚えのある曲だった。
どこで聞いたのだろうと記憶を辿ると、新野時代の事が思い出された。
孔明がかつて暮らしていた辺りの田舎で、農民達が歌っていた様に思われる。
農民が歌うにしては不釣り合いに知的な歌詞だったため、印象に残っていたのだ。
それは、遠い昔斉の頃の逸話を語る歌だった。
あの地方で良く歌われた民謡だったのだろうか。
「……ダメですね」
歌い終わるや、孔明がぽつりと呟いた。
「歌は苦手です。やはり琴の伴奏が無ければ」
確かに、聞き惚れる様な歌声ではなかったが、聞ける程度に上手かったと思う。
元々孔明は声が澄んでいる。
だが孔明自身が不満そうである。
「ちゃんと今度は琴の音をつけます」
「あ、はい……」
どうやら孔明は見かけによらず負けず嫌いというか、完璧主義なのかもしれない。
とにかく趙雲としては、孔明が琴を聞かせてくれるというなら願ってもない。
そう言えばもし尚香が本当に劉備の所にいたのだとしたら、また今日も孔明と影から見守っていなければならないことになる。
孔明には悪いが、護衛職もたまには悪くないなと思って趙雲は孔明に気付かれないようにこっそり笑った。
〔続〕
梁哺吟は孔明が作った説と、元からあったのを孔明が好んで歌ってた説がありますが、これもない交ぜな感じにww
困った時は折衷します。
孔明って出仕以前と出仕後でだいぶキャラ違いますよねぇ…。
出仕前は梁哺吟を良く歌ったり、「俺は管仲クラスだから」とか言ったり、わりとはっちゃけてる気がする…。
意外と打ち解けた相手の前では歌をうたったり琴を弾いたりしてたんじゃないかなーと思います。
人見知り…とかだと可愛いなぁ///ハッハッハ
仕事なら全然物怖じしないのに、プライベートだと人見知りな孔明だと可愛い。
趙雲が孫夫人の護衛にあたったというのは正史にも書いてある事なのですが、半武将(超強い)の趙雲を護衛にあてるってのは普通じゃない事みたいですね〜。
それくらい孫夫人を警戒していたらしい。
実際は劉備と孫夫人がラブラブ…なんてのはありえなかったんだろうなぁ…(´;ω;`)