軍師殿と私 居場所-1


春に入りて纔か七日
家を離れて已に二年
人歸るは雁の落ちて後
思うは花の發く前に在り


春に入ってまだ七日しか経っていない
家を離れてからは已に二年になる
私が帰れるのは雁が去っていった後になりそうだ
帰りたい想いは花が開く前から抱いているのだが



――「人日思帰」薛道衡










目下、劉備軍は大宴会中である。
荊州南郡は決して豊かな土地ではなかったが、それでも用意出来るあらゆり嗜好品を集めた、きらびやかな宴だった。
宴の主賓は張松。
益州牧劉璋に支える参謀だと聞いている。

「さぁ遠慮は要りませぬぞ張松殿。貴方の為に用意した宴だ。心行くまで楽しんでくだされ」

劉備軍の頭である劉備自らが、直々に張松の相手をしている。
劉備の隣の小男が、件の張松だ。
背が低く歯を突き出した様な不恰好な容姿だが、眼光鋭く、頭の方はかなりキレそうだと窺えた。

「仁君と評判の劉皇叔にこの様な歓待、感謝の言葉もございません」

張松は、事実この宴を楽しんでいる様だ。
劉備もその他の諸将も、本心から張松を歓待しているというのが伝わるのだろう。
もっとも、諸将達は宴が出来るのなら何でも良いという心情で、宴の主旨はなんだって良いのだという事は、流石の張松にも分からないようだ。
劉備とは反対側の張松の隣には、軍師のホウ統が座っている。
こちらも張松に劣らずの醜男だったが、張松よりもずっと人好きのする顔をしている点で、得をしている。
ホウ統も劉備と同じく、快活に張松と酒を酌み交わしている。
ホウ統もかなり朗らかな性格で、人と打ち解けるのが早い。
劉備とホウ統に挟まれたら、どの様な気難し屋でも気を許すに違いない。
しかしはて、もう一人の軍師はどこだろうかと部屋を見回すと、件の人は劉備達とは少し離れた場所に座っている。
ホウ統とは全て真逆にした様な人だ、と思う。
諸葛孔明という人は、背が高くスラリとした体つきで、顔も随分小綺麗な印象だ。
しかしながら性格は社交的とは言い難く、宴の場でもほとんど騒がない。
というより、酒を口にする姿さえ見た事が無い。
ただそれは私的な場での話であって、本気でこの人の口を開かせたら敵う者はいない、という話である。
先の折、一人呉の地へと説客に行き、孫権を開戦に踏み切らせたばかりか、遥かに戦力に劣る劉備軍と同等な同盟を取り付けた事が、この人の能力を物語っているだろう。
しかし、そんな諸葛孔明とはいえ、宴において普段は劉備の近くに座っていたのではなかったか。
今日は劉備とも遠いし、あまり目立たない場所に座っている……等と思っていると、おもむろに孔明は立ち上がった。
どうしたのだろうとその姿を目で追っていると、孔明はそのまま部屋を出ていく。
それはあまりに静かで、孔明が消えた事に気付く者すらほとんどいない。
どこに行くのだろうと思うと同時に、自分も自然と後を追っていた。


「お一人で出られては危のうございませぬか」

声をかけると、孔明はハッとしてこちらを振り返った。
付けられている事に、全く気が付いていなかった様だ。
これではあまりに無防備がすぎるというもの。
普段孔明を守護している趙雲はいかに苦労しているだろうと、お節介ともいえる同情が頭をよぎる。

「これは……関平殿」

孔明は関平の顔を見ると、ホッとした様に息を吐いた。
刺客だとでも思ったのだろうか。

「こんな時にご自分の執務室へ?宴の最中に仕事とは異な事を」

孔明はどこに行くのだろうと思ったら、なんの事はない、自身の執務室であった。

「張松殿の話の裏を取りたいと思いまして」

「裏を?」

「張松殿が本当に我が軍に協力する気があるのか。張松殿が漏らした言葉が真実かどうか、確かめたいのです」

そう言えば張松は会話の端々で成都の豊かさはどうの、益州への道のりがどうの、益州についての情報を口走っていた様に思われる。
口走っていた……というよりは、ホウ統に引き出される形で話していた?
今思えば、そういう話は大体ホウ統との会話中で話していた様な気がする。

「ホウ統殿が情報を引き出し、諸葛亮殿が裏を取る……という分担なのですか?」

だから孔明はいつでも出られる場所に座っていたのか。

「察知が良いことで。流石は髭殿のご子息であられる。本心から我等に協力する気でないなら、酒の席であろうとそんな事は言いますまい」

孔明は関羽の事を、その外見の特徴から髭殿と呼んだ。
立派な髭が自慢の関羽も、そう呼ばれる事が嫌いではないらしい。

「とは言え、一人で抜けられるのは軽率でございましょう。張松が我々に協力する気があるか不明な今こそ、気をつけなければ」

刺客を放っていないとも言い切れない。
真面目に関平は言ったのだが、孔明は聞き流すかの様な態度だ。

「宮中内の部屋を少し移動するだけの事を、些か大袈裟にございますな」

「貴方は御身の大切さが分かっておられない」

「ふふ、これは趙将軍の様な事をおっしゃる」

孔明は困った様に笑った。
この人は最近少し笑う様になったな、と思う。

「それは褒め言葉と受け取って良いのでしょうか?」

「褒め言葉?そんなつもりはありませんでしたが、そう思うならばご自由に」

言いながら、孔明は執務室の戸を開けた。
関平の方を振り替える。

「入りませんので?」

「えっ、よろしいのですか」

「私を護衛して下さるのでしょう?」

思ってもなかった事だ。
孔明がそう言うのならこの機会を失う手はない。
関平は孔明に言われたままに、室内へと足を踏み入れた。



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