軍師殿と私 居場所-2


執務室は、関平が思っていたよりずっと雑然としていた。
孔明の事だから、部屋はさぞ綺麗にしているのだろうと思ったが、その予測は外れた。
調度は少ないのに、やたらと書物が多い部屋だった。

「すいません、人を呼ぶ予定では無かったので」

孔明は慌ただしく散らばった荷物を片付けて関平の座る場所を用意してから、自信は部屋に一つ据え置いてある机の前に座った。

「少し前に綺麗にしたばかりなんですがね……趙将軍が来た際に。仕事に精が入ると周りに目が向かなくていけない」

趙雲がこの部屋に入る事があるのか。
趙雲は孔明の主騎であるから、ありえない事でもない。

「趙雲殿は、この事をご存じなので?」

「宴を抜ける事?先も言いましたが、このくらいの事で、いちいち大袈裟です」

つまり、伝えてないという事か。

「心配されますよ。貴方の主騎なのですから」

「彼は主騎という役職ではありますが、『私の』というわけではありません。主騎とは軍師個人につくわけではありませんから」

確かに、主騎とは主君や主君の妻子、軍師などを護衛する直属の親衛隊の様なものである。
しかし劉備の妻子がそう出歩くわけでもないし、劉備にはなんだかんだで義弟達のどちらかがついている。
従って自然と趙雲の護衛対称は孔明に限定された。
よくよく考えればホウ統も同じ軍師なのだが、どちらがより護衛が必要そうかと言えば答えは明白なため、軍内では「趙雲は孔明の主騎」として通っている。
そんな事知らないのは本人達ばかりと言う事か。
そんな関平の意も知らず、孔明は続ける。

「それに今護衛すべきはご主君のはず。私の事を心配している場合ではないです」

孔明はどこか、決め付けた風に言った。
だから関平が代わりに今ここにいれるのだから、文句は言うまい。
関平が返さずにいると、孔明は色々な竹簡を広げて中を確認していく。
「裏を取る」作業なのだろうか。

「益州は閉鎖的な地域で、情報は伝わって来にくいと聞いていますが」

「ええ、受け身でいても何も入って来ません。だから私や士元は積極的に益州へ細作を送っています。とは言えそれも全て正しい情報か分からないからこそ、比較して検討する必要がありますが」

「えっ、そんな事をなさっていたのですか?」

「張松云々に関わらず、我が軍は益州攻略を考えていました」

初耳だ。
いや、最終的にそこを目指すという事は分かっているのだが、孔明達が既に本格的に動き出していた事を知らなかった。

「先に、呉から諸葛瑾殿が参られたでしょう」

諸葛瑾は孔明の兄のはずだが、孔明はあえて他人行儀に言っているのだろう。

「その時、呉主からの伝言を預かって来ていたのですよ。曰く、『いつになったら益州を獲るのか』と」

劉備は孫権に「益州を獲ったら荊州南郡を変換する」と約束してある。
孫権はその催促をしたのだろう。
そして劉備軍も、そろそろ本格的に益州攻略を考えねばなるまい……そういう流れになっていたのか。
その時に張松が現れるとは、まさに渡りに船。
孔明は黙々と作業を続けている。
関平は邪魔にならないよう、静かにその様子を見守っていた。
あまり普段は眺める機会の無い、軍師の姿形を目で辿る。
嫌味なく綺麗だな、と思う。
容貌はさる事ながら、そのしゃんと伸びた背筋や、整った髪、糊の通った衣服。
そしと独特の清廉な雰囲気。
孔明が自分にも他人にも厳しくあろうとする意識の表れであると思う。
関平は自分には無い孔明独特の澄んだ印象には一種の憧れを抱いている。
元々関平は孔明には好意的だった。
まず初めに主君劉備が新たに軍師を連れてくる際、年齢の若いのを聞いて、関平はそれだけで嬉しかった。
劉備軍には関平と同世代の者は少ない。
故に、年近い仲間というだけで関平には孔明には親近感が沸いた。
実際会ってみて、より関平は孔明を好きになった。
自分と気が合いそうだとは思わなかったが、年の割りに落ち着いた雰囲気、年上の諸将等に物怖じしない態度が、関平にはかっこよく映った。
しかし関平が好意的に思った孔明のそれらの特徴は、年長者からは悉く疎まれるものだったのらしい。
孔明は古参の将達からは生意気だ、とか可愛いげが無い、と言って嫌われていた。
尊敬する父関羽すらも同様に孔明を貶めるのを聞いて、関平は悲しかった。
最初に孔明に打ち解けたのは、劉備を除けば趙雲だったように思う。
孔明を護衛する立場であるから、当然一緒に過ごす時間も長い。
当然といえば当然だったろう。
関平は基本的には関羽と共に行動するため、趙雲や孔明に会う機会は意外と少ない。
故に、久々に二人を見かけて、何があったのだろうかと驚いたくらいだ。
しかし良く良く観察してみれば、二人は職務に滞りない程度に打ち解けたとはいえ、やはり二人の間には少し距離があったように思う。
関平はそれに気付いて、少し安心した。
孔明と最初に仲良くなるのは自分が良いなんて子供っぽい事を考えていたのだと、その時自覚した。
しかし如何せん、関平は孔明と接する機会は少ない。
孔明と話す機会さえ無いというのが実状だった。
そんな関平に孔明との接触の機会を与えたのは、他でもない趙雲であった。


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「関平、丁度良い所に来たな」

関平はその日はたまたま宮中にいた。
関羽はその日は外に出払っていたため、関平は暇だったのだ。
とはいえ呉からの使者が来ているという話だったので、あまり羽目を外すわけにもいかない。
結局関平は手持ち無沙汰で辺りをうろついていたのだが、趙雲に声を掛けられたのはそんな折だった。

「趙雲殿?」

趙雲が手招きするので、関平は真っ直ぐ趙雲の元へ寄った。

「今ご主君と呉からの使者が会談中だと聞いておりますが、趙雲殿はその警護を任されているのでは?」

「その通りだ。だから今ここから動けぬのだ。代わりに少し頼まれてくれぬか?」

頼み事……と聞いて気は乗らなかったが、どうせ暇だから構うまい。

「何の用なのです?」

「軍師殿を会談はそろそろ終わりそうだと、伝えて欲しいのだ。ああ、孔明殿の方だが」

「軍師殿!?」

予想外の申し出に、関平の体は跳ねた。

「加減が悪くて執務室でお休みになられている。もしかしたら寝ているかもしれないが……」

「お任せ下さい。私が行って参ります」

「そうか?悪いな」

趙雲は申し訳なさそうに言ったが、むしろ感謝したい気分だった。
私的な場で孔明と話した事はない。
勿論、執務室を訪ねた事すら無かった。
関平は弾むような足取りで孔明がいるという、執務室へ向かった。


「もしもし、軍師殿?」

関平は戸を叩いて、中の孔明を呼ぶ。
しかし返事はない。
先程から幾度となく叩いているのだが、いっこうになしのつぶてだ。
中に入ろうかとも考えたが、趙雲はもしかしたら寝ているかもしれないと言っていた。
そういう場に突然現れるのは失礼だろう。
特に孔明は、なんとなくそういう事を嫌いそうだった。
しかしこのまま反応がないのでは、どうしようもない。
仕方ない、中へ入ろうかと思った瞬間に、戸がガラリと開いた。

「起きています、すいません」

中からは孔明が顔を出した。
そして関平は、孔明の顔を見てハッと息をのんだ。
ひどく青白い……死人の様な顔色だった。
誰が見たって病人だ。
そう言えば趙雲は、加減が悪くて休んでると言った。

「ぐ、軍師殿。まだ寝てらした方が良いのではないですか?」

「……貴方は髭殿のご子息の、関平殿でございましたね」

「いかにも」

孔明に名を覚えられていたのは嬉しいが、今はそんな事に浮かれている場合ではない。

「貴方は私を起こしに来たのではないのですか?」

「そうですがしかし、その顔色を見ては」

「私の顔色が悪いのはいつもの事です。それに少し眠りましたから、大丈夫」

大丈夫なわけがない。
そう思ったが、有無を言わせぬ孔明の前では、関平はとどめる事も叶わなかった。
結局孔明は、そのまま劉備達の元へと去った。
遠くから見ると、顔色は幾らか戻ったようだったので安心した。
しかしそれも、孔明が気丈に振る舞っているからに違いない。
体調が悪くても仕事を投げ出さない、孔明の真摯な姿勢にまた関平は好意を持った。
しかし、いつもこんな無理をしてはいつか倒れる。
それから関平は以前より一層孔明の動向を気にする様になった。
ちゃんと休んでいるのか、そう心配するようになった。



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