しばらく、あの色白な軍師の顔を見ていないな……と思った。
最近は劉備と張松の護衛ばかりで、あの細い輪郭を目にする機会すら少ない。
また無理をしているのではないか、悪い夢に魘されているのではないか。
人を護るのが仕事とはいえ、自分も過保護になったものだなと思う。
劉備を護衛するのが嫌なのではないが、ふとした瞬間に意識が向かってしまう。
「どうした子竜、お疲れか?」
不意に現れた劉備に肩をポンと叩かれる。
気が抜けていた。
劉備に声をかけられるまで、気付かなかった。
「は、申し訳ありません。つい気が緩んで……」
「らしくないな。でもここの所お前も出ずっぱりだったし、疲れるのも無理はない。今日はもう休んでくれ」
「あ、いや、疲れてなどは」
「じゃあ、孔明が気になるか?」
まさか。
趙雲は息を飲んだ。
流石に劉備とはいえ、人の心は読めるはずがない。
「なぁに、心配するな。今孔明には関平がついてる」
関平?
そう言えば先日の宴の折も、孔明の隣には関平がいた。
趙雲の代わりに、関平が護衛についているという事なのか。
「じゃあな、子竜。久々にゆっくりしろよ」
趙雲はなおも劉備に訊きたかったのだが、劉備は行ってしまった。
仕方がない、そう思ってその場を去ろうとすると、後から尚香が部屋から出てきた。
劉備と一緒にいたのだということを、すっかり失念していた。
どうにも今日はやはり、気が抜けている。
「趙将軍、お疲れ様。いつも大変ね」
最近では尚香も劉備の妻として、賓客に会う機会が多い。
張松とも、しばしば言葉を交わしている様である。
最初嫁いで来た頃より険が落ちて、いくらか大人びた。
元々綺麗な容姿はしているが、美女という形容が似合う風になってきている。
「勿体無いお言葉にございます」
趙雲は恭しく拱手を掲げた。
「最近毎日貴方の顔を見ている気がするわ」
「そうですね、確かにここ数日は劉備様の傍を護っております故」
「ありがたいけど、なんだか申し訳ないわね、ずっと働きづめなんて。少しくらい自由な時間が欲しいわよね……」
「いえ、そんな事は――」
「好きな人に会えないのは辛いんじゃない」
――え?
「あの、奥方……」
尚香の言わんとしている事が、今いちピンと来ない。
「いるんでしょう、好きな人。以前貴方に『好きな人いる?』って訊いた時、いるって顔してたわよ」
「いや、私は……」
「大丈夫、皆には黙っていてあげるから。貴方に好きな人がいるなんて知れたら、皆大騒ぎするに決まってるし。どんな女か?もうヤったのか?結婚はいつか?なんて、根堀葉堀……あー、絶対収集つかなくなるわね!」
尚香の喋るスピードに、趙雲はついていけない。
内容には、もっとついていけてない。
「奥方、私はですね」
「貴方、まだ想いを伝えてないなら、さっさとなさい。正直、貴方に言い寄られて嬉しくない女はいないわよ。ま、私は玄徳様一筋だけど」
「いや、というか」
「尚香さーーん、行くぞー?」
行ったはずだと思っていた劉備が、まだ近くにいたのか、尚香を呼んでいる。
尚香が来ないから、戻ってきたのかもしれない。
「ごめんなさい!!すぐ行きまぁす」
尚香は劉備に言われると、言葉の通り風のように、去っていってしまった。
後には、趙雲一人が残された。
「…………」
空を仰ぐ。
まだ日は高い。
なんとなく、まだ休む気にもならなかった。
そうしていると、ふと孔明に会いたくなった。
まだ仕事中だろうか、だろうな。
止められなければいつまでも仕事をしている様な人だから。
もしかしたら、息抜きに琴を爪弾いているかもしれない。
孔明の奏でる琴の音は、素晴らしい技巧とは言い難がったが、趙雲はとても美しい調べだと思った。
孔明はどうやら執務室にいるらしい。
仕事中だろうから、特に用も無く入るのは躊躇われた。
もし今が休憩中だったとしたら、中に入ろう。
趙雲は足音を忍ばせて、執務室の入口に近付いた。
扉をしまっているが、中から人の気配がする。
しかし、中にいるのは一人ではないらしい。
一人は孔明だとして、もう一人は誰だ?
護衛を任されているという、関平だろうか。
趙雲は二人の会話に、そっと耳をそばだてた。
「孔明殿」
「なんです?」
「こちらへ来て下さい。そして横に……」
「どうしてそんな事を言うのです」
「貴方を思うが故です、軍師殿」
「嫌だと言ったら?」
「力付くでも……と言いたい所ですが、そこまでする勇気は私にはありません」
――何の会話をしているんだ……?
趙雲の臓腑がざわつく。
「一人にさせて下さい」
孔明は少し時間を要して、最後に答えた。
すると、人が動く気配がした。
こちらへ出てくるかもしれない。
趙雲は咄嗟に曲がり角の姿が隠れる場所まで逃げた。
趙雲の勘の通り、趙雲が隠れた一拍後に、戸が開いてそこから出てくる者がある。
関平だ。
関平は出てきた戸を閉めると、その戸に背中をつけて座り込んだ。
先程の声は、やはり関平だったのか。
主騎の代わりとして、孔明の護衛についている。
自分の居場所を奪われた様な気がして、面白くなかった。
気づけば、関平を呼んでいた。
関平はすぐに気付いて、駆け寄って来た。
関羽の息子であるわりにはあまり背は高くない。
趙雲の目の辺りまでしか背がない。
「趙雲殿、何用ですか。今軍師殿のお部屋を護衛している所なのですが」
関平はただ本当の事を言っているだけだ。
だが、趙雲には関平の言葉が無性に腹立たしい。
趙雲は慌ててその気持ちを押さえつける。
気を抜くと、獰猛な気持ちが出てきてしまいそうになる。
「分かっている。だから来たのだ」
趙雲は平静を装って、続けた。
「代わってやろう」
「代わるって……軍師殿の護衛を?」
関平はよほど思わぬ申し出だったのか、怪訝な顔で趙雲の顔を仰いだ。
「そうだ」
「趙雲殿はご主君の護衛では?」
「今日はもう良いと言われたのだ」
「なればこそ、趙雲殿こそお休みなされ。代わって頂かなくても大丈夫ですから」
代わると言えば関平は喜んで代わるだろう、という趙雲の予想は外れた。
「強情だな」
予想外の事態に、趙雲は少なからず動揺した。
動揺は、趙雲の平静を装った趙雲の仮面を揺るがす。
「すいません」
関平は謝る。
その謝罪の声の真摯さが、余計に趙雲を苛立たせた。
俄、仮面が外れる。
「もう一度言う。『代われ』」
自分でも分かる、低い声。
予想していたよりもずっと低い声だった。
威嚇するための声。
案の定、関平の目が開かれ、顔を脂汗が伝った。
脅しすぎただろうかとも一瞬思ったが、次の関平の言葉が、それは杞憂だったと気付かせた。
「な、何度言っても同じです……」
関平はなおも、趙雲を拒んだ。
明らかに趙雲に物怖じしているのに、その勇気はどこから来るのだろうと、趙雲は純粋に不思議だった。
その想いが、趙雲の苛立ちを抑えた。
「仕方ないな、ここは引こう」
自然にそう答えていた。
関平は、明らかに安堵している。
その様子が趙雲を再び苛立たせたのだが、もう一度それを表にする事はしない。
今日の所は帰ろう。
元来た方向へ踵を返そうとした時、趙雲は思い出した。
「ところで――」
「はいっ?」
「さっき部屋で軍師殿と何を言い合っていた?」
あの会話――不粋な考えが、趙雲の脳裡をよぎる。
返答によっては殴り飛ばそうと決めた。
「さっき……?」
しかし、呆気ないほど関平の返事は灰汁の無いものだった。
演技だったらとんだ名俳優というものだ。
その顔を見て、趙雲は自分の考えが不埒な妄想だったのだと思い、恥じた。
「いや、すまん。変な事を聞いた」
自分とした事が、どうかしている。
一刻も早くこの場を立ち去ろう、穴があったら入りたいとはこの事だ。
しかし、関平の声が趙雲を制す。
「趙雲殿、私は貴方と同じです。貴方と同じ想いです」
「え?」
ゆっくりと振り替えると、どうだろう。
関平は意気高げに、趙雲を見ている。
その表情はどこか挑戦的でもある。
しかし私と同じとはどういう事だろうと、趙雲は思った。
「私も、負けませんよ」
関平はそう言って、ニヤリと笑う。
「………………」
ああ、そういう事か。
言われて、不思議と趙雲はすっと気持ちが軽くなる気がした。
では、やはり先程の会話はそういう意味だったのだろうか。
演技には見えなかったのだが……、いや構うまい。
それとこれとは別の話だ。
「そうか――」
言われて初めて、趙雲は自覚した。
自分が、孔明をどう思っているか。
苦笑する。
むしろ今までどうして気付かなかったのだろう。
気付かせてくれた関平には、感謝の意を表して、ここは去るとしよう。
「なら私も負けない、とだけ言っておこうか」
趙雲は来た道を戻る。
「では頑張れよ、関平」