軍師殿と私 居場所-6


今日の会談は特に長かった。
ホウ統と張松はほぼ毎日密談を交わしたが、今日は始まる前からどこか緊張した空気を纏っていた。
しかも今日は劉備も、それに加えていつもは同席しない孔明も密談に参加した。
今日こそ、結論が出るのかもしれない。
張松が、劉備に手を組み、益州攻略への協力を内約させる。
元々、張松は劉備に協力する事は表明的だ。
だが、詳しい交渉・協力内容はまだ確固たる文言としては提示されていない。
今日それが決まるのではないかと、趙雲は予想した。
密談は、宮城内の一角で行われた。
警備しやすいよう、あえて角部屋の小さな部屋が選ばれた。
警備を担当するのは、勿論趙雲と、他に趙雲直属の部下が数名。
いずれも実力、人格共に趙雲の信頼にうる兵士達だ。
関平はいない。
趙雲が警備するのだから、当然ではある。
ただそれだけの事に笑みが溢れる自分の小物さに、内心呆れる。

「おはようございます、孔明殿」

「ああ、子竜殿……おはようございます」

話しかけると、孔明はちゃんと返してくれた。
だが、少し素っ気ない様な気がするのは気のせいだろうか。
ここ最近顔を合わせてなかったから、仕方のない事かもしれない。
孔明達は、吸い込まれるようにして部屋の内へと入っていった。
こうなると、あとはひたすら周りを警戒するのが趙雲の役目である。
中の会話を盗み聞こうなどとは思わない。
仕事に関しては孔明や龐統に完全に信頼を置いているからだ。
早く終わると良いのだが、と趙雲は青空を眺めて一人ごちた。


それからどの位の時間が過ぎただろうか。
劉備がご機嫌な様子で部屋から出てくる。
もう話は済んだのだろうか。
比較的早く終わったように思う。

「劉備様、お疲れ様です」

「子竜、ちょいと頼まれてくんないかな?」

「はい?」

「張松殿が益州にお戻りになる。州境まで送ってやって欲しいんだ」

「……今からですか?」

「そう、今からだ。善は急げで一刻も早く根回しをしてくれるのだと。……ああ、交渉は成立だ」

劉備は目一杯破顔してみせた。
良かった……心から良かったと思う。
ただ、張松の護衛に州境まで行かなければならないのが予想外だったが。
趙雲は劉備の後方を、チラリと見やる。
部屋から劉備以外の面子がちょうど退室する所だった。
一際背の高い、黒い人影。
趙雲の視線には気付かないまま、孔明は行ってしまった。
それを寂しい、等と思うのは流石に図々しいというものか。
孔明も、今日からはまた益州攻略のために今まで以上に忙しい日を過ごす事になるのだろう。
せめて無理だけはしないで欲しいと願う。

「張松殿、この趙子竜が州境まで供を勤めます」

いつの間にか、張松が劉備の隣に立っていた。

「かたじけない」

張松は拱手を掲げ、頭を下げた。
趙雲も拱手を返す。

「いえ、お気にせず。張松殿の御身はこの趙子竜がお守り申し上げます」

とはいえ、今は目の前の仕事に集中しなくては。
趙雲も、益州攻略のために力を尽くしたい。
軍師でもなく、位も高くない趙雲に出来る事は少ないが、せめて出来る事をしようと心に決めた。



「おう、お疲れだったな子竜」

張松を送り、趙雲が戻って来れたのは、数日後の事であった。
急いで帰ってきたつもりだが、これが限界だった。
趙雲が帰りついた頃には、早くも荊州には微かに違う空気が流れていた。
いつでも益州へ迎える様になのか、軍の編制の確認があらゆる所で行われている。
目の前にすわる劉備だけは、いつも切り取られた様に独自の空気を纏っている。

「張松殿は無事益州へ向かわれました」

「そうか、ご苦労」

そう言って劉備は、ふわりと人の好い笑顔を向けた。
ああ、この笑顔のために頑張ったのだという笑顔。
この笑顔に魅せられて劉備について行くと決意した者もいるだろう。

「私はこれから何をすれば良いでしょうか」

「今まで通りの業務に戻ってくれ。……というと、尚香さんのお守りだな。後は必要な時に孔明の護衛か」

「え?」

「なんか問題か?」

「いえ、皆軍の起こす準備に忙しくしている様ですのに、私は良いのでしょうか」

趙雲は護衛、警備の仕事が主だとはいえ、一軍を担う将の端くれである。
戦となれば、当然前線で槍を奮う機会もある。

「今度の戦には荊州組だけを連れて行く事に決まったんだ。だから、お前や義弟達は留守番。今まで通り荊州の統治を任せる」

「は、はぁ。では孔明殿も?」

「孔明がいなかったら誰が荊州の政治を見るってんだ。荊州の事は、あいつが一番良く知ってるよ」

確かに劉備の言う通りであった。
軍事に関しては龐統に信任されているようであるし、実際に益州へ入る時は、恐らく龐統を軍師として連れて行くのだろう。

「……あの、関平は」

「関平?関羽について行くと思うが。関羽には江陵の方へ行ってもらう。孫権への牽制のためにな」

劉備はそれ以上は続けなかった。
当然関平の孔明護衛の任は解かれたという事であろうか。
劉備はさも当然に――というよりは、趙雲の心情など考えもつかぬようだ。
つまり以前の通り趙雲が主騎に戻る事が、当たり前として扱われている。
趙雲はそれ以上は何も言わず、部屋を後にしよう。
その次に趙雲が向かったのは、関羽の軍である。
予想通り関羽はまだそこにいて、兵達に何やら指示を出している。
関羽直属の兵は、恐らく此度の江陵行きに従うのだろう。

「おお子竜か。いつ戻ってきたのだ。お前が拙者の軍に来るとは珍しいな」

関羽は趙雲に気付くと、親しげにこちらへ来た。
趙雲も長身な方だが、関羽は更に高い。
近い距離だと、軽く仰ぐ姿勢になる。

「江陵へ行かれるそうですね。劉備様から伺いました」

「うむ、碧眼児への牽制の為にな」

碧眼児とは、孫権の事である。
瞳が碧いという特異な外見であったため、そう呼ばれる。
妹の尚香も青みがかった瞳をしているが、家系なのだろうか。

「行く前にお会いできて良かったです。また暫くお会いできないでしょうから……」

「うむ、そうだな。関平にも会っていってくれ」

「はい……」

趙雲は兵士の中から関平の姿を探した。
関平はほど遠くない場所にいた。
趙雲はそちらへ向かう。
ここへ来た一番の理由は、むしろ関平に会う事だったのだ。

「趙雲殿。お戻りだったのですか」

「やあ、関平。聞いたぞ、関羽殿と共に江陵へ行くそうだな」

「はい、趙雲殿もお気をつけて」

「あ、ああ……」

関平はニコニコと笑いかける。
なんだか、腑に落ちない態度なのだが。

「こ、孔明殿は……」

「孔明……って軍師殿ですか?こちらに残られると聞きましたが」

「いや、そうなんだが……主騎としての役目は?」

「趙雲殿に役目をお返ししますね。少しの間だけでも楽しかったです。軍師殿のお役に立てて」

「…………」

「軍師殿は我が軍にとって必要な存在です。力になって差し上げて下さい」

ああ、なんだ。
やっと ストンと、ひっかかっていたものがあるべき場所へ落ちたような感覚に見舞われる。
それに気付くと、次は急に恥ずかしさが込み上げて来た。

「あ、ああ。では怪我の無きように」

「趙雲殿も」

屈託なく微笑む関平の笑顔がまた、趙雲にはいたたまれなくて趙雲は逃げるようにしてその場を立ち去った。



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