明明如月 明明たること月の如き
何時可採 何れの時にか採るべき
憂從中來 憂いは中より来たり
不可斷絶 断絶す可からず
明るく輝く月の光は、いつまでも手にとることはできない。
心の中からくる憂いは、絶ち切ることはできない。
――――――『短歌行』曹操
劉備達が益州へと発つ日が来た。
劉備について益州へと向かうのは比較的新参な武将が多く、趙雲を初めとした新野時代からの将の多くは、孫権軍への牽制として荊州に残る事になっている。
そして出発の直前、居残り組の趙雲達は見送りに集まった。
ただ江陵の抑えとして早々と現地へ向かった関羽や関平の姿はそこには無かった。
「そういや趙雲殿に頼み事があるのだが」
ふいに龐統が趙雲へ、そう声をかけたのは、出発も目前に迫った刻の頃である。
明るいうちに出来る限り進めるよう、出発は朝まだ陽の昇りきらぬ頃に決まり、辺りはまだ薄暗い。
趙雲は常人よりは遥かに夜目が利く方だが、それでも人の顔は朧気にしか視覚出来ない。
はためく劉旗の色も見えない。
「私に?ですか」
「いや、それが自分で行くべき所をすっかり忘れていたわけで。ただ叔父上の元に手紙を届けて欲しいんだが」
「叔父上というと……」
「龐徳公と言えば分かるかな?出発前に挨拶に行こうと思ったんだが、何分向こうは田舎に引っ込んでおられるから会いに行くでも骨が折れるもんで。代わりに手紙を書いたんで、それを届けて欲しい」
龐徳公。
荊州の者なら余程の身分の低い者でもない限り名を知っている有名な陰士だ。
非常に学があるそうだが、前荊州牧の劉表に何度乞われても仕官しなかったという経歴がある。
中華では立身出世に拘らず、才を隠して陰棲する者を妙にありがたがる傾向がある。
勿論龐徳公も多分に漏れず人々の尊敬を集めているそうだが、劉表に仕官しなかったお陰で荊州が動乱を迎えた際も騒ぎに巻き込まれずに済んだのだという。
「あの、その頼み自体は構わないのですが、今龐徳公はどちらに?襄陽におられるのでしたら難しいかと」
「いや、いや、何も貴公に細作紛いの真似をさせてまで手紙を渡して欲しいわけじゃない。叔父上はゴタゴタの前から襄陽を離れてひっそり田舎暮らしを楽しんでらっしゃるから」
「ああ、それならば」
本当にただのお使いの様だ。
ならばと快諾し、龐統から絹に書かれた手紙を受けとる。
「場所はまぁ、孔明にでも案内して貰ってくれ」
龐統が言うやいなやの時に、劉備の声が響き渡る。
劉備はさほど遠くない場所で多勢に囲まれていた。
その人垣の中には、一際背の高い黒い影が見える。
孔明だ。
「そろそろ出発だ!隊列を組め!!」
「おっと、時間のようだ。趙雲殿、すまないね」
「あ、いえ」
龐統を見送る間に、みるみるうちに隊列が組上がる。
もう当分劉備にも、龐統にも会えない。
そう思うとふっと胸に淋しさが浮かぶも、すぐ側に立つ人の姿を見て、趙雲は顔を綻ばせる。
――孔明殿は一緒に荊州に残るのだ。
ただそれだけで少しの淋しさは我慢出来る気がする。
それに、長くても数年でまた会えるのだ。
趙雲が援軍に派遣されるような事態になれば、もっと早くに再会できるだろう。
見送るならば、笑顔の方が良い。
趙雲は消えていく劉備達の一軍を笑顔で見送った。
――――――――――――――――――――
孔明は相変わらず、いや劉備達がいなくなってから余計に、仕事詰めの毎日のようだ。
ただ最近では劉備の室である孫尚香に手がかからなくなり、勉強をみるのもどこぞの学のある令嬢が代わったらしい。
それでも龐統をはじめ、出払った官吏の空きを、出来る限り自分の力で埋めようとしているようだ。
いつも忙しそうで、正直話しかけるのも躊躇われる。
話しかけたいとは思うのだが、孔明の仕事の障りになる真似だけは避けたい。
だが趙雲としても龐統の頼みだけは反故にするわけにもいかず、とうとう孔明が休憩をしている瞬間を見掛けて話を切り出した。
「孔明殿、少しお時間をいただけますか?」
孔明は散歩でもしていたのか、宮城の庭を通る小川の水面を覗き込みながら、供も連れずにつらつらと歩いていた。
孔明の仕事場とまではさほどの距離もない。
息抜きだったのか、ちょうど良い時に出会して運が良い。
もっとも、こうして出会したのは偶然でもなんでもなく、趙雲が例によって孔明に話しかける機会を探りに孔明の様子を見に訪れたからである。
「子、竜殿」
孔明は意外そうな面持ちで趙雲を見た。
単に驚いたというよりは戸惑うような表情で、一人で息抜きしてる所に悪かったかなと罪悪感があったが、趙雲とて用事があるのだから引くわけにもいかない。
「少しお尋ねしたく……」
「お尋ね……私にですか?なんでしょう」
「龐徳公のお住まいを孔明殿ならご存知だと思いまして。その、手紙を頼まれたのです龐統殿より」
「はぁ」
「案内をして頂けると有り難いのですが」
孔明のこめかみがピクンと跳ねる。
「……申し訳ないのですが、仕事で忙しくて……」
孔明が趙雲とは違う方角へ視線をさまよわせながら言い、言い終わる前にその目が一瞬大きく開かれた。
思わず、趙雲も孔明の視線の方へ振り替える。
「そうです、季常に代わりを頼んで下さい」
視線の先にいたのは、こちらへ歩いてくる馬良だった。
その特徴的な白い眉の下には、見るからに柔和そうな顔が続く。
実際、その印象のままに柔和な人柄だった。
「え?何ですかお二人とも」
二人して自分を見ている事に、馬良の方も気付いたようだ。
大声を出さなくても充分に会話が可能な距離にまで馬良は来ていた。
「馬良殿も龐徳公のお住まいをご存じなのですか」
「ええ、というか、昔二人で訪ねた事があります。ねぇ、季常。貴方は龐徳公の住まいの場所、まだ覚えていますか?」
「え?ええ……。何回か訪ねましたから、近くまで行けば分かるでしょう。それがなにか?」
突然の話題に、馬良は目を丸くしている。
そう言えば孔明と馬良は昔からの旧知の仲だという。
孔明が昔良く通っていた場所を、馬良が知っているというのもおかしな話ではない。
「ならば、馬良殿に……」
本心からすれば孔明に案内してもらいたい……というか、正直最近接点が無かった孔明と久々に過ごせるんじゃないかと考えていたのだが、孔明の手が空かないというならば仕方がない。
「えと、あの、どういう事なのですか?」
「趙将軍が、龐徳公の住まいへ案内して欲しいとの事です。生憎、私は手が空かないので……」
チラリと、横目に趙雲を見る。
「私の代わりに案内してくれません?」
「ああ、成る程そう言う事ですか!ええ、構いませんとも」
馬良は人の良い笑みを返した。
その笑顔に趙雲がささやかな罪悪感を抱いたのは言うまでもない。
「いつがよろしいですか?」
「手紙を預かっているので、早い方が良いと思います。馬良殿の都合がつく限り早めに……」
「手紙ですか。ならば早速今日の午後にはいかがです?私は特に急ぎの用事が無いので」
「今日の?え、ええ。そちらが構わないのでしたら」
「ではあと二刻ほどしたら正門で待ち合わせしましょう!少し辺鄙な所にありますから、そういう準備をしてきて下さい」
そう言い終わるや、馬良は朗らかに破顔した。
どちらかと言えばあまり社交的ではない孔明が、馬良とは仲良く出来ているという理由が、なんとなく分かる気がした趙雲だった。