二人が城を出たのは昼過ぎだった筈なのだが、いつの間にやら空はだいぶ薄暗くなり始めていた。
とはいえ、上空は覆い被さる様に生い茂った木々で視界は通らず、ハッキリと太陽の姿を確認する事は出来ない。
かろうじて道と言えそうな道を、二人は馬を進ませている。
馬や人が通るばかりで、車などが通る事は無いのだろう。
随分前からずっと、馬二頭がやっと通れるくらいの道幅の道が続いている。
しかし二人は並んで歩いてはいない。
こんな道が悪い場所ではおのずと馬術の差が出るため、どうしても馬良は遅れがちになる。
趙雲の方はなれたもので、振り替えって馬良を待つくらいの余裕を見せている。
遠征の経験が文官が武将に劣るのは当たり前だが、馬良は趙雲に比べてずっと若い。
差が出るのも仕方がないのである。
「季常殿、大丈夫ですか?」
「申し訳ないです、足手まといになっているようで」
「いやいや私の無理を聞いて貰っているのですから。して、まだ道は長いのでしょうか」
「まだもう少しですかね。暗くなる前につけば良いけど」
「今日中に城へ戻るのは無理ですね……」
「そりゃそうです、龐徳公のお宅へ日帰りは無理です。龐徳公に宿をお借りしましょう」
「いきなりその様な事、失礼ではありますまいか」
「向こうも承知でしょう、いつもの事ですから。昔訪ねた時も、行ってその場で宿を借りました」
昔……、孔明と昔通ったといっていたが、その頃の事なのだろうか。
「孔明殿と来られた際もこの道を?」
「と言うか、他に道らしい道無いんですよね。だから久々に来ても道が分かるのです」
なるほど、と思った。
よくこの様な目印の無い道が分かるな、と内心不思議だったのである。
馬良の宣言通り、龐徳公の庵につくには一時の時間を要した。
日はほとんど沈みかけ、暗い森の中まで赤い光が届いている。
木漏れ日から漏れる夕陽が時折妙に眩しい。
龐徳公の庵は、その夕陽に照らし出されるように、ぽっかりと森の中に佇んでいた。
庵の周りは趙雲がその気になれば馬で一越え出来そうな、申し訳程度の木の柵に囲まれ、これまた低い門に続いている。
門から見たところ、建物が二つ並ぶように建てられ、その間を屋根つきの渡り廊下が結んでいる。
家畜の臭いがするが、家畜の姿も声も聞こえない。
もう宵だから、小屋に入ってしまったのだろう。
庭は庭と呼ぶにはあまりに森と同化しすぎている風情だったが、住み心地は悪くなさそうだ。
もし、という馬良の大声の呼び掛けに、間もなくサッと一つの人影が舘から現れる。
まだ幾分かあどけなさを残したような青年だった。
背は趙雲より頭二つぶんはゆうに小さく、馬良と門を挟んで向かい合ってもさらに低く見える。
「私は馬季常。昔龐徳公に世話になった者です。今は劉左将軍の下で働いています。龐徳公に用があって急遽訪ねたのだが、ご在宅でしょうか」
「旦那様なら中に。して、そちらの方は?」
青年はついと、切れ長の目を趙雲に向ける。
「私は同じく趙子竜という。龐徳公には甥の龐士元から文を預かって来たのだと伝えて欲しい」
青年は軽く頷いて、舘の方へ戻っていった。
そして再び顔を見せるまで、ほとんど時間は用さなかった様に思う。
「旦那様がお通しになるようにと」
青年が小さな門を開いたので、馬良と趙雲は馬を連れて中へと入った。
「馬はこちらへ。お二人は中へどうぞ」
実に手際よく、馬は青年に連れられて、庭の奥へと消えていった。
残された二人は促されるままに舘の内へと足を踏み入れる。
中は外見以上に綺麗に整備されており、華美とは言わないまでも蕭奢な丁度が置かれている。
しかしそれも大豪族龐家の者が住むにしては、あまりにこじんまりとした装いだろう。
中へ入るとすぐに居間になっていて、中央には大きな几と、その周りには椅子が何脚か並べられている。
その椅子の一つに、老年の男が一人で座っていた。
室内には既に灯りが灯されていて、男の皺まで良く見える。
暗さに目が慣れた趙雲には、油に灯された火さえ少し眩しい。
部屋の奥には竈が設置してあり、厨でもあり暖をとる装置にもなっているらしい。
竈には鍋がちょうどかけられている……食事の準備中だったのだろうか、室内は良い匂いで満たされている。
遠路を越えたばかりの趙雲には堪らない匂いだったが、グッと奥歯を噛んで意識をそちらから離す。
「龐徳公、お久しぶりでございます。お変わりありませぬようで」
隣の馬良が拱手をしたのを見て慌てて、趙雲も拱手を続けた。
「季常、久しいな。相変わらず奇妙な眉をしておる、ふぉふぉ。そして趙――将軍かな。よくぞ参られましたな」
「お初にお目にかかります、趙子竜と申します。益州へ向かわれた龐軍師に頼まれ文を預かって参りました」
趙雲は懐から、例の文を取りだし、座ったままの龐徳公に手渡す。
「わざわざこのために申し訳ありませんのう。今夜はごゆるりと泊まっていかれよ。食事もちょうど今作らせておった所でございましての。量がちと足りぬやもしれぬが、その時はまた作らせましょう」
「急な訪問に、申し訳なく思います」
「気に病む事はござらぬ。久々の客を、気のすむように歓待させて下され」
言い終わるや、龐徳公はいかにも大老といった様子でふぉふぉ、と笑った。
そのおおらかな雰囲気は確かに名士として尊敬を集めるのも頷けるようなものだった。
「それでは、お言葉に甘えて」
趙雲と馬良が荷を降ろし、ようやく席についた頃、青年が戻ってきて食事の用意を再開したのだった。