趙雲は用意された暖かな寝具で、爽やかに目をさました。
昨夜あれから簡単な夕食を用意してもらい、馬良とは別々の客間をあてがわれた。
客間自体は狭く、寝床と小几しかない粗末な部屋ではあるが、こんな小さな庵に良くも二つも二つも客間があるものだ。
馬良が言う通り、ここへ訪ねてくる者は皆最低一泊するものだというなら、当然その為の準備をしているという事なのだろうか。
「おはようございます、もうお目覚めですか?」
コンコンと戸を叩く音と共に、遠慮がちな声で尋ねてくる。
「ああ、起きている」
「左様ですか。着替えと手拭いを用意致しましたので、中へ入っても?」
「それは構わないが……」
趙雲が答えると、戸がゆっくりと開き、隙間から例の下男の青年が顔を覗かせた。
手には布らしき物を幾つか手にしている。
昨晩の夕食の際も給仕はこの青年一人に任せられていたし、この庵には他に下仕えの者はいないのだろうか。
「着替えなど無用だ。着てきた物を着る」
元に趙雲は今、旅装の上衣を脱ぎ、襦と褲だけになっている。
旅先でいちいち服を替える等というのはよほど貴人がする事だ。
そもそも庶民は日々の衣服すらずっと同じものを着続ける事もザラである。
「龐徳公が是非にと言われたので是非。ここに泊まられた方は皆こうですのでお気になさらず。着替えた方はお渡し下さい、洗います故」
丁寧だかどこかぞんざいな感じのする口調だ。
彼にしてみれば、こんなやりとりもいつもの事なのかもしれない。
こうまで言われてなお固辞すればむしろ迷惑だろうか。
趙雲は素直に替えの衣服を受け取り、早速着替える。
着替えの最中も出ていかない辺り、やはりいい加減やり慣れた仕事なのだろうかと趙雲は苦笑した。
「すまない」
一言添えて脱いだ服を渡す間、青年は意味ありげに趙雲の全身をチラチラと見回す。
なんだろうかと問い質す前に、青年はサラリと出ていってしまった。
「朝食の用意は済んでいます」との一言を残して。
昨晩夕食を摂った居間の様な場所へ向かうと、確かに几上には箸と器が用意してあり、龐徳公も既に席についていた。
もう食べ終った後なのだろうか、使用済みらしき器が並べられ、龐徳公自身は優雅に白湯でも飲んでいる。
「良く眠れましたかな、えぇと」
「趙子竜です。お陰様で、衣服や食事まで厄介に」
趙雲が拱手をして一礼すると、龐徳公はおおらかに笑い声をあげる。
「ふぉふぉ、なになに。この様な暮らし故客人は貴重でしてな。折角だから構わせておくれ、趙将軍。して、食事はすまぬがそこの日にかけてある鍋から自分でよそってもらいましょう。
それがうちの流儀でございましてな」
言われた通り、自ら器に鍋の中身をよそう。
鍋の中身は雑炊だった。
「頂きます。ところで、馬季常殿はいかに?」
「太皓が言うには、声をかけても返事が無かった様ですな。まだ当分起きぬ事じゃろう」
タイコウ?あの青年の事だろうか。
行軍慣れした趙雲はともかく、慣れぬ遠路で馬良はかなりの疲労困憊だった様だ。
帰りもまた同じ道を戻る。
その時までに体力を回復しておかなければならないから、今は好きなだけ寝かせておくに限る。
「今日1日くらいゆっくりしていきなされ。出発は明日でも良い。貴殿に何か予定が無い限りは」
龐徳公はニコニコと言った。
趙雲は今から帰路についても構わないのだが、馬良のためには今日一日休養に費やした方が良いかもしれない。
数日かかると告げて来なかったのが気にかかるが、遠くまで人を訪ねるとは伝えてあるからなんとかなるだろう。
馬良の方は大丈夫だろうかと思ったが、馬良自身は一日で帰れる場所じゃないと分かっていたのだから、その様に伝えてあるに違いない。
何かあれば、事情を知る孔明が上手くとりなすだろうし。
「では、お言葉に甘えまして」
雑炊は軽い塩味で、思ったよりも具が多い。
山菜に紛れて肉も入っている。
やはり家畜を飼っているのだろうか。
趙雲がやや冷めた雑炊を頬張っている間、龐徳公は趙雲をにこにこと眺めている。
「あの、何か?」
じっと見られていては、流石に食事が喉を通りにくい。
「いや、服の丈は短くないかと思いましてな。見た限り無理は無い様なので安心ですがね」
「ああ、服ですか。問題ありません」
「貴殿の様に上背がある客人は珍しい。孔明が着てた物を太皓に慌てて用意させました」
太皓という青年が着替えた自分をじろじろ見ていたのは、こういう理由があったのか、と得心する。
「孔明、……孔明殿も良くこちらへお出でになっていたと伺っております」
「うむ、奴が若い頃は良くここへ顔を見せたものですのう。一度来たら、数週間近く滞在する日もあった」
龐徳公は、目を細め、何かを思い描くような表情で語る。
「離れが書庫になっておりましての、朝から晩までそこにいる事も多くて……。うちの書庫目当てに訪ねてくる客は多かれど、あそこまで熱心であった者もおるまい」
「それほどまでに」
「孔明は天涯孤独の身でした故、本を充分に買う余裕は無かったのです。だから、私は遠慮なくここの本を読むよう言ったのです。……将軍は孔明と知り合いですかの」
知り合い。
なんと返すか、一瞬戸惑う。
「同じ軍にて、顔を合わせる機会も多いのです。私の方が年長ですが、非常に尊敬できるお方であると」
「ふぉふぉ、孔明は良き同僚を得たのう」
「さようなことは」
謙遜のつもりはなかった。
「書庫を見ますか?将軍殿。武の道の方には退屈なだけかもしれませぬが」
「いえ、とても興味があります」
若き日の孔明が通い、長い時間を過ごした場所。
彼はここで何を見、何を想い、何を感じたのだろうか……とても気になった。
そして出来れば、同じ気持ちになれたらと願う。