「将軍」
「あ、はいっ!?なんでしょう」
「とりあえず話はまた今度です。今はとにかく出陣の準備を」
「はいっ」
「曹操軍の大船団はきっと破られます。今夜、長江は赤く染まるでしょう。今夜の戦は、きっと歴史に残りますよ」
諸葛亮は彼にしては熱っぽい声で言った。
そうだ、今夜の戦はこの先の世も語り継がれる事になるだろう。
もしそうでなかったとしても、今夜の戦は劉備軍の進退を決める大事な戦になる事は間違いない。
冷静に見える諸葛亮も、今回ばかりは興奮しているようだ。
いや、この戦のために奔走した諸葛亮だからこそ、冷静に事を図った諸葛亮だからこそ……その興奮も一入なのだろう。
なにせ、体が痩せ細るまでに駆けずり回ったのだ。
そしとそれが全て、今夜の戦で報われようとしている。
興奮するのも無理はないだろう。
――ああ、そうか。
趙雲は再びあの感覚に襲われた。
目から鱗が落ちるような、あの感覚。
諸葛亮は戦っていたのだ。
誰にも頼らない、たった一人で臨む戦。
冷静さは武器だ。
弱さを見せないための武器であり、仮面。
諸葛亮はそれだけを携えて、孤高に戦っていた。
今夜の戦に敗ければ、劉備軍の命運は断たれる。
しかし戦にならなければ……戦う術もなく、劉備軍は終わりだった。
諸葛亮は劉備軍の未来の為に必死で戦っていたのだ。
今日の戦に勝てば、暫しの間諸葛亮はその武器を下ろせるだろう。
そしてその仮面の下の素顔が、今少しだけ露になっている。
諸葛亮は何も変わっていなかった。
最初出会った時から、少しも。
変わったのはむしろ、趙雲の方だ。
諸葛亮という人間を、私がやっと分かるようになったのだ……と、趙雲は気付いた。
「――軍師殿っ!!」
「なんですか?」
船から降りようとしていた諸葛亮を呼び止めた。
「私は、何をすれば!?」
「…………」
「何でもやります!貴方の命令なら……」
「……今回の戦で我が軍がやる事は、曹操軍への追撃だけです」
「はい」
「特に貴方に任せる事はありません」
「……はい」
諸葛亮はひらりと船から降り、そのまま陣の方へと歩いて行った。
陣の前には劉備と、関羽を始めとする諸将等が諸葛亮を待っている。
諸葛亮は劉備に今夜の戦について話し、早速出撃の準備を始めるのだろう。
世に語り継がれる大戦が始まるのだ。
「私に任せる事は無い……か」
それは果たして「今回の戦で我が軍がやる事は、追撃だけ」……だからなのか。
それとも、趙雲が信頼するに値しないからなのか。
今まで築いてきた諸葛亮との微かな信頼関係は呆気ない程簡単に崩れた。
崩れて……しまったのだろうか。
今になって、その関係を大切にしておけば良かった等と思うのは、虫が良すぎるだろうか。
だが、どうすれば良い?
変わってしまった、そして変わってしまった自分に気づいてしまった以上、変わる前には戻れないのだから。
凍えるような長江の風が、今はやけに心地好く感じる。
ため息をつきながら、趙雲は船の上から去っていく諸葛亮の後ろ姿を見た。
――叡知溢れる軍師殿に従っていれば、正しい結果へ導いてくれるのだろうか。
諸葛亮は一度も振り返らないまま、陣の奥へ消えていった。
【続】