陽光煌煌たり 陽光煌煌たり―5


韓非子。
内容の殆どは昔の逸話なのだが、その逸話を教訓にして、法家の教えを説いている。
その教えは非情で、現実的だ。
だが、確かに孔明のやり方に良く似ている。
そして、曹操のやり方にも似ている様に思う。
孔明と曹操は政治の手法が似ているという事なのか。
そしてそれは二人が法家の教えを重視しているからなのだろうか。
韓非子を読むようになって、趙雲はそう思う様になった。
韓非子は一巡した。
今はそれを書き移す作業に入っていた。
一文字一文字書き写していると、単純に目で追うよりも色々と考えてしまう。
空いた時間に読めるよう、書いた方の巻は懐に入れて常備していた。
しかしこうして改めて読み直すと、自分の字が汚いなと苦笑したりする。
趙雲は庭の隅にある亭の下で、自分で書いた方の韓非子を広げていた。

「うわああぁぁあっ!!」

「っ!?」

急に叫び声が聞こえて、立ち上がる。
近くで何かあったのだろうか?
書を放り出した趙雲はその場を飛び出して、騒ぎの方へ走り出した。

「どうした!?」

「あ、ち、趙将軍!!」

兵士が数人集まり、うち一人が足の腱を抱えて呻いていた。

「腱を傷めたのか?」

「あ、いや、打ち合いをしていたらアイツが急に苦しみだして……」

兵士の一人、手に棍というにはあまりに粗末な木の棒を持った男が答えた。
倒れている男の側にも同じような棒が落ちている。
趙雲は一瞬で理解した。
つまり、兵士達が打ち合いと称して遊んでいた所、一人が足をくじいたという所だろう。

「調練の時間以外に武芸の鍛練とは素晴らしいがな……ちゃんと怪我をしないよう、最初に体を慣らせと言われなかったのか?」

「す、すいません……」

趙雲がそっと兵士の腫れた足首に触れると、痛そうにウッと呻いた。
しかし見た所、骨に異常は無いようだ。
というのも、骨が折れていた場合こんな痛がりようでは済まないからだ。
大人の男でも涙を流す程痛いというのは、趙雲の実体験による。

「骨は大丈夫、挫いただけだ。どこの隊の者だ?」

「り、劉封将軍です……」

兵士の答えに、趙雲は苦笑する。

「ご子息か。もう少し兵に丁寧に指導するよう言っておかないとな。医務室に連れて行き、劉封隊と伝えよ。さすれば明日からの調練は免除になる」

「は、はい!」

ちゃんと指示を受けた事で、兵士達の動揺は落ち着いたようだ。
一人が怪我人を背負い、皆がそれについていく。
やれやれと、趙雲は大きく息を吐くと、元いた場所へ引き返した。
問題はむしろ、その先にあった。
趙雲が韓非子を置いて残した所に誰かいる。
しかもその誰かというのが、運悪く孔明なのである。
何故、こんな所に……と考えて、以前孔明がここで書を読んでいた姿を見たことがあるのを思い出した。
というよりも、孔明がここにいるのを見つけて、趙雲もこの場所を知ったのだった。
孔明が来るのも当たり前と言えば当たり前である。
孔明は、趙雲が座っていた所に腰を下ろして……几に広げられた例の韓非子を読んでいる。
しかも、かなり真剣だ。
趙雲が近くから見ているのにも気付かないのだから。

「…………………」

さて、どうするか。
それは私のです、と声を掛けようか。
それとも孔明がここを去るのを待つか。
しかし趙雲が思っているよりも早く、孔明は手元の書から目を離した。
それは趙雲が物陰に隠れる決断をするよりも早かったため、間抜けに立ち尽くしている趙雲の姿が、真正面に孔明の視界へと入った。

「……子竜殿!?」

驚いている。
趙雲が真正面に突っ立っていたのを見れば、当然であろう。

「……あの、えっと」

「いつからそこに」

孔明とはどうも、妙に間が悪い時に出会う気がする。

「それ、私のなんです」

動揺している趙雲は、つい孔明の問いとは検討違いな事を答えた。
取り合えずその事を伝えなければ……というより弁解しなければと必死に考えていた所以である。

「あ、この韓非子。貴方のだったのですか?申し訳ありません、つい書が無造作に置かれているので何かと思ったら……」

「いや、別に構わないのですが。韓非子、お好きだそうで」

「えっ?」

口が滑った。
余計な事を、と悔やんでも遅い。

「好きというか……、良く読みましたね。ああ……もしや龐徳公から」

流石に孔明は察しが良い。
今さら誤魔化そうとしても徒労に終わる事だろう。

「はい、実は。それで私も興味を持ちまして……龐徳公に借りて、今書き写しているのです」

「それ、で……?」

「はい?」

「いえ、何でも」

孔明の目が一瞬趙雲を真っ直ぐに見据えて、そしてすぐに手元の書の方へ落とす。

「ではこれは、貴方の字」

「そうです。お見苦しくて申し訳ありません」

「そんな事はありませんが……。何故そこまでして」

「いつまでもお借りしている訳にはいかないでしょう」

「いえ、そうではなく……」

再び、孔明の目が趙雲に戻る。
だが、視線は趙雲の顔ではなく肩の辺りをさ迷っている。

「……何でもありません。忘れて下さい」

「?は、はぁ……」

「龐徳公はお元気でしたか?」

「はい、とてもご壮健でした。馬季常殿も、以前と全く変わっていないと」

「そうでしたか」

孔明がふわりと笑った。
今向かい合っていて初めて、孔明の雰囲気が和らいだ気がする。
いや、ずっと前からそうだった気がする。
ここ暫く趙雲と話すときはいつも、孔明は何やら張り詰めた空気を背負っていた。
長いこと忙しかったのだから、無理もないのかもしれないが。

「孔明殿の事も……あ、いえ」

「なんですか?」

「いえ、暫く会ってないから懐かしいと」

「……それだけですか?先程の態度だと、他にも何かありそうですが」

「いえ、そんな。気のせいかと」

「そう隠されると余計気になります。もしや私の陰口でも?」

「まさか」

「ではなんですか?教えて下さい」

「……ならば、孔明殿が先程の続きを言って下さるなら」

「え?」

「先程いいかけた言葉の続きを教えて下さるならば、私も教えましょう」

「――――」

孔明は途端に口をつぐむ。
半ば冗談のつもりで言ったは良いが、この孔明の反応に己の申し出を後悔した。
冗談ですからと趙雲が口を開きかけたほんの少し前に、閉じていた孔明の口が開いた。

……愚かな事です。

風にさえ書き消されそうな程か細い声だったが、趙雲の耳にはその様に届いた。

「貴方が書き写してまで韓非子を読むのは……」

「それは、いつまでも借りるわけにはいかないからと」

「私の真似をして?と」

「――――」

「そう、言おうかと思いました」

つまり、趙雲をそうからかうつもりだったが、直前になってやめたというわけか。
趙雲はそう理解した……のだが、孔明の憮然とした表情を見て、なんとなくその結論には違和感を抱いた。
憮然とした、というのは間違いかもしれない。
少しふてくされたような、照れ隠しのような。
白い頬に微かに、朱が差している。
しかし、趙雲として図星に他ならないのだから、驚愕である。
「興味を持ったから」等という表現では生温いくらい、孔明の真似をしたかったのである。
孔明が読んでいたと聞いてなかったなら、この先一生読まなかったかもしれない。
真似たというよりは、孔明の追体験をしたかったといった方が真実かもしれない。
孔明という人格形成に必要な要素を、自分も取り入れたかったのである。
やはり孔明に隠し事をするのは難しいらしいと、趙雲は観念した。

「お恥ずかしながら、その通りです」

「えっ」

「貴方が読んだものを、私も読みたかった」

「し……」

「不愉快かもしれません。申し訳ありません」

「不愉快なんて……事は……」

孔明は顔を伏せていて、更に手に持った羽扇が邪魔をして、表情が見えない。

「……で、貴方が言おうとした事はなんなのです!?龐徳公は、なんと」

急き立てる様に、孔明が言った。

「貴方が魅力的な人であると」

「っ!?」

「……龐徳公はそう、おっしゃられていました」

本人不在の場でこんな話をしていたと、よりによって本人に話すのは、気恥ずかしいものである。
だが、自分から提案した条件を、破るわけにはいかない。

「そ、そうですか……」

孔明は不自然に羽扇をパタパタと仰ぐ。
照れ隠しなのだろうか、顔も先程までよりずっと赤い。
しかし趙雲の方も孔明の顔を直視出来ずにいるので、気付いていない。

「……………」

気まずい空気が暫くの間場を支配した後、ハッと何かを思い出した様子で顔をあげた。
「いけない!」とだけ、孔明は呟いた。
何か用事が控えていた事を忘れていたのだろう。
韓非子に集中していながらふと顔をあげた瞬間も、恐らくその事を思い出しかからだったのだろう。
しかし、眼前に趙雲がいたものだから、またそれを失念してしまったに違いない。

「す、すいません」

無意識に趙雲の口から謝罪の言葉が漏れていた。

「何故、謝るのです?」

孔明は怪訝な顔を返した。

「私が時間を取らせてしまったのではないでしょうか?」

「それは、そうですが。でも、悪いのは私です。そもそもこの書に気をとられた時点で、私が悪い」

「いや、しかし」

「謝らないで下さい。貴方は悪くない。悪いのはこの私なのですから――」

語尾が吐息に混ざる。
孔明は、几から離れた。

「いつも貴方は、私に謝ってばかりいるような気がします。でも、謝らないで下さい。むしろ、心苦しいのです」

「すいません」

また、というのはお互いが思ったが、流石にそれを指摘するのも子供じみているので、二人とも黙っていた。

「行く所があったのです。私はこの辺で」

孔明は、趙雲の横を通り過ぎて、向こうへと歩き出した。

「優しいのは、貴方の良い所だと思います」

通り過ぎざま、孔明がぽそりと言い残した。
だからこそ私は苦しいのだけれど――と続いた様に感じたのは、趙雲の気のせいかもしれない。



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