陽光煌煌たり 陽光煌煌たり―6


「旦那様は、生憎お出掛けになっておられます」

相変わらず下仕えのこの青年は、どこかぶっきらぼうな口調で趙雲を出迎えた。

「そうか……残念だ。だが今日はこれを返しに来ただけだから。面と向かってお礼申し上げられないのは心苦しいが、代わりに礼を伝えておいてくれないか」

趙雲は、借りていた韓非子を、目の前の青年太皓に手渡した。

「韓非子……」

太皓はぽつりと、書名を口ずさんだ。

「では私はこれにて」

「お待ち下さい。今から帰られては陽が暮れるのではありませんか。外出中にお越しになった客を世話するよう、私は申し付けられております」

「いや、今からなら日暮れ頃には着くだろう」

今日は、馬良もいないから、前回よりもだいぶ時間を短縮して到着する事が出来た。

「しかし、馬が疲れているでしょう」

「それほどでもない」

「……韓非子以外にも、法家の書はございます」

その言葉に、来た道を戻ろうとしていた身体が、ピタリと静止した。

「……話を聞いていたのか?」

「いえ、旦那様に教えて頂きました。何故あの将軍様は韓非子を読まれているのでしょうと訊きましたら、諸葛孔明と申される方が法家を良く読んでいたと教えたからだと」

太皓は、さも当たり前のように言った。

「韓非子以外にも、そうか……私は分からない。教えてくれるか」

「勿論。旦那様ならきっとそうなされたと思います」

趙雲が苦笑を返すのも待たず、太皓は門を開けて、真っ直ぐに書庫の方へ歩き始めた。
趙雲も、慌ててその後を追う。

「孔明殿を知っているのか?」

「お話だけは。私が旦那様に雇われた時には、孔明様はこちらにはあまりお出でにならなくなっていましたから。ですが、旦那様がたまにお話になられるので、知っております」

「公はどんな話を?優秀だったとか、変わっていたとか、そんな話だろうか」

趙雲には、変わった魅力がある子だと言っていた。

「いえ、字が私と同じであると」

「同じ?」

「とても明るい。私の知り合いにもそんな名と字を持つ子がいたと、旦那様は」

「ああ……」

字に使われた、漢字の意味らしい。

「その誼で、旦那様は私を本家からこちらに選んで下さいました。本家の仕事が嫌だったわけではありませんが、私はここの静かな暮らしが好きです。旦那様も尊敬できるお人柄です。だから、私は孔明様に一言お礼申し上げたい気持ちです」

二人は、とうに書庫の前についていた。

「ならば、私から伝えておこうか」

「そうして下さると、ありがたいです」

太皓は腰に掛けた鍵束から、鍵を一つ選び、書庫の扉にかかった鍵を開けた。
以前来た時は鍵はかかってなかった様に思うが、龐徳公不在の時はこうやって鍵をかけてるのだろう。

「以前から思っていたのだが、使用人は君だけなのか?」

「いえ、半年ほど前にはもう一人お婆さんが働いていたんですけど、龐徳公よりも年上の人だったから、亡くなってしまったのです。料理などは、その人がやってたんですけども……」

「そうか……」

「旦那様は仕事が大変だろうと、新たに人を雇わねばならぬとおっしゃいますが、私は今の仕事に満足しています。だから、今のままで良い。私は旦那様に謝られる度、気を使われる度に逆に辛いのです」

「辛い」

「私には過ぎた幸で、申し訳なく思います。そして、過ぎ足る幸を当たり前と思う様になるのが怖いのです。人には、その人に合った身の丈がございます。しかし、それを忘れるのが恐ろしい……。法家の徒もそう言いましょう、過ぎ足る真似をした者は、報いを受けるのです」

「過ぎ足る幸か……それは誰が決めるのであろうか」

「私は、それを己で理解していると思っております。ほら、そこに。あそこの棚の一帯が、全て法家の書にございます」

太皓が、扉から入ってすぐの棚を指差す。

「ああ、そうか」

「では、ごゆっくり。私は仕事に戻ります故、何かあれば呼んで下さい」

「すまない、ありがとう」

趙雲の言葉に、太皓は苦笑した様子で一礼し、書庫を出ていった。
扉は開けたままだ。
肌に微かに感じる程度で、風が入ってくる。
趙雲は一冊選んで書を手に取ると、再び書庫奥の几と椅子にかけた。
今日もそこは柔らかい光に照らされている。
ここはずっと永遠にそうであるかのように、緩やかに時間が流れていた。



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