軍師殿と私 某月某日−5


某月某日
今朝は濃い霧が立ち込めていたから、案の定昼頃には快晴で暑くなるほどだった。
まったく最近は気温の変化が激しくて困る。
ここ数日は仕事が少なくて暇だ。
休憩を多目にとって昨夜すぐ投げた書に目を通すが、寝る前よりは幾らか頭に入った気がする。
これからは陽が暮れる前に勉強をする時間に当てる方が良いか。
今夜は趙雲将軍の家にお邪魔する事になったから、日記は短いがこの辺りで。




某月某日
昨晩から色々な事がありすぎたから、とりあえず順を追って書いていく。
昨夜は仕事を終えて帰ろうとしていたところ、たまたま帰り道で趙雲将軍に出会った。
少し挨拶をと思って話しかけると思いの外話が弾んだのもあり、先日の礼をしたいと言われて食事に誘われた。
少しお疲れの様だったためどうかと思ったが、我が家に誘うとまた謖が煩わしいのもあって誘いにのる事にした。
趙雲将軍宅は思いの外にこじんまりとなされていて、召人の数も少ない。
せっかくだからと趙雲将軍が手ずから料理を用意してくださり、それもなかなかの出来映えだったのには驚く。
趙雲将軍曰く殿や張飛将軍も料理の腕はなかなかという話である。
流浪時代が長かったため自然と上手くなったのだそうだ。
ああ見えて亮兄も料理が上手い。
亮兄の場合も叔父を亡くして以来、妹弟を育てるために苦労をしたからなのだが、全く料理が出来ない私はなんとも恥ずかしい。
食事も酒もささやかな物だったが、静かな空間と相まってなかなか良い。
思わず酒が進んで、普段はあまり飲まないのだがついつい酔っぱらうまで飲んでしまって、飲んでる途中で泊まっていったら良いと言われて、結局かなり酩酊するまで飲んでしまった。,br> 趙雲将軍の方もいささか酔っていたようで、いつもより口が良く回ってらっしゃった。
なんでも今日の昼、亮兄が用事で出掛けていた際護衛に着いていたのが他でもない趙雲将軍だったらしい。
趙雲将軍がお疲れだったのはそのためもあったらしく、ポツリポツリと酒を進めながら話始めた。
前から薄々思っていたのだが、やはり今日避けられていると確信したと。
なんでも今日は元々別の者が護衛に着く予定だったのが、その者が急に体調不良で倒れたため、特に予定もなかった趙雲将軍が代わりを務める事になったのだが、いざ亮兄にそういって会いに行くと困った顔をしていたのを、趙雲将軍は確かに見たのだと。
道中口数も少なく、見るからに元気がない。
そもそもそういった護衛ならば自分が専門なのに全く自分には知らせずいつの間にか他の者に頼んでいた事自体が悲しいと言う。
確かに言われてみればそうなのだがそれくらいはたまたまかもしれない。
しかしその場の態度など私がこの目で直に見ていないため、なんとも言いがたい。
一昨日亮兄は私が将軍と仲良くしていると言って複雑な顔をしたのも、もしかすると私と趙雲将軍が仲良くするのが面白くないのかもしれない。
それほど亮兄が将軍に苦手意識を持っているとは思わなかったが、趙雲将軍の様な良い方を嫌うなんて何があったか知らないが、納得がいかない。
酒が進んでいたのもあり、それを聞いて私は随分と憤慨した。
今思い返すと随分いきり立って話を聞いていたものだと恥ずかしい想いもあるが、根本の気持ちは変わらない。
亮兄も趙雲将軍の事をちゃんと分かって欲しい!!
私達は夜が更けるのも忘れて杯を重ねた。
正直言って飲み過ぎだ……まさかこれほど後を引くとは思わなかった。
一晩経った今頃やっと体調が戻ってきて、今こうやって日記を書いているわけだが、以後気を付けよう。

結局私達は何時なのか分からない世が寝静まった頃、崩れる様に眠りに落ちた。
いや、落ちたのは私だけでいつの間にか将軍が私を寝所まで運んで下さったらしく、目が覚めたら清潔感のある床の中だった。
その傍らの長椅子で趙雲将軍は眠っていらっしゃった。
急に泊まらせてもらい、酒と料理を頂いて、勝手に酔っ払った挙げ句家主の床に勝手に眠るとは……しかも家主に運んでもらって……趙雲将軍もだいぶ酔ってらっしゃった筈なのに。
全くもって顔から火が出る想いである。
しかも朝に風呂を借りた。
二日酔いが酷くて満足に動けなかったために無駄にいちいち時間がかかって、趙雲将軍まで出仕時刻に遅刻させてしまった。
面目無い。非常に面目無い。
こうなったからには趙雲将軍と亮兄の仲を打ち解けさせたい!
私に出来る事はそれくらいだ、それくらいしかない。
結局私達が出仕したのは昼前になってからの話だった。
私を介抱しながら宮廷へ連れて行ってくれる間、趙雲将軍は昨晩私に話した事をひどく後悔なさっているようだった。
昨晩言った事は忘れて下さいとたった一回言ったきりだが、悔いるような恥ずかしいような複雑そうな表情を終始してらっしゃったから。
それから私は仕事部屋になんとか入ったものの、極度の頭痛と軽度の吐き気に苛まれながらはほとんど仕事が手につかず、前日から残していた簡単な確認の事項だけをただ目で追っていった。
仕事の忙しくなかった時期で本当に良かったと思う。
昼過ぎて自分でももう限界だ、休もうという頃になってふらりと亮兄が部屋を訪れたい。
一人だ。謖も侍従も連れていない。
いつもなら歓待する所だが、正直その時はあまりに気だるく対応がなおざりになってしまった。
亮兄は部屋に入ってきた時から幾らか機嫌が悪かったように思う。
顔色も相変わらず悪かったため、そのせいかもしれないと瞬時に思ったが、体調の悪い私をげんなりさせるには充分だった。
開口一番、何故今朝は遅刻をしたのかと、意外なほど低い声で訊いてきた。
亮兄は感情が昂ってる時はむしろ声が上擦る癖がある筈なのだが。
本当の事を話しては趙雲将軍に迷惑がかかると思い、私は店で酒を飲んでいたらつい酔い潰れてそのまま寝てしまったのだと嘘をついた。
その割りには髷も衣服も乱れが無いようで、などと目ざとい事を言う。
確かに私が意識を朦朧とさせている中、趙雲将軍のお宅の召人が勝手にやってくれたのだ。
私の嘘が勘に触ったのか、ますます亮兄は不機嫌な空気を纏わせた。
何をそんなに怒っているのか、急な仕事も特に無かった筈だと心中ではぐるぐると問いが渦巻いていたのだが、それを口に出して糾弾するような元気もなく、頑張って言った所で口で亮兄に敵う筈もないので、私はぼんやりと亮兄の言を聞き流していた。
他に何を訊かれたかあまり覚えていないが、覚えてないという事は大した内容でもなかったのだろう。
亮兄もあらかた言い終わると、急に意気消沈して勝手に言い過ぎたと謝ってきたあたり、ただ虫の居所が悪かったという話なのかもしれない。
それがただ私の死にそうな日に重なってしまったという悲劇なのだ。
そしてか細い声で、紅葉を見に行くのは明後日はどうでしょう、と尋ねる。
これが要件だったのか、今までのは何だったんだという問いを飲み込んで、私は大丈夫ですと一言返した。
亮兄はホッとした顔と、申し訳ない顔とを混ぜながら静かに退室していった。
適当に返してしまったが、明後日なら大丈夫だろう、多分。
どうせここの所暇だし仕事があったとしても明日どうにかすれば良い。
夜になった今更元気になってきても仕方がないというに、とりあえず今夜は勉強でもして寝ることにしよう。





某月某日
数日前の寒さが嘘のような暖かな1日だった。
流石に今朝にはもう完全に酒は抜けきっていた。
とりあえず趙雲将軍に謝りに行かねばと思ったのだが、部屋につくと私宛の書簡が置いてあったのを見て、驚いた。
昨夜のうちに届いていたというそれは、関羽将軍からのものだった。
先日の相談の返事が早かった事が殊の外嬉しかったのか、わざわざこの様な感謝の書を返すとは存外マメな方である。
それでいて業務用のと全く同じ竹簡に書いてくるというのが、なんとも武骨で関羽将軍らしいといえばらしくて笑える。
この件で私の中の関羽将軍への心証が好転したことは間違いない。
その後とりあえず仕事を済ませて昼頃に軍の演習場へ行ってみたが、今日の将軍の隊は城壁の手入れに駆り出されていたらしい。
私は今日漸く快復したというところなのに、精力的なことでまったく頭が下がる。
仕方がないので部屋に戻って仕事を軽く済ませ、早めに今日はあがった。
折よく将軍は帰還されていた所で、あまり待たずにすんだ。
私を見てまず一言、お加減はどうですか?と尋ねてくる将軍はまことにお優しいと思う。
しかしかえって心配させていた事があまりに申し訳なくて、私は平謝りする他なかった。
張飛将軍などの介抱に慣れている身としてはなんでもない、と将軍は笑って返されたが、確かに社交辞令でも無さそうだ。
また良かったら飲みましょうと誘ってくれた時には、思わず目頭が熱くなる思いだった。
そして私はその時思ったのだ。
やはり将軍と亮兄の仲を取り持たなくては!と。
次の瞬間私は翌日の行楽に将軍を誘っていた。
将軍はなかなか驚かれていたようだが、以前に一度紅葉の話は耳に入れておいたし折よく特に予定も入っていなかったという事で、案外アッサリと決定した。
勿論将軍に亮兄の事は話していない。
話せば恐らく遠慮して断られるだろう。
しかしこれで明日趙雲将軍と亮兄は鉢合わせする事になる!
多少気まずい空気になるだろうが、それは私がなんとかなだめれば良い事だ。
基本的に私が二人の間に入って、ほんの少しだけわざと二人きりにしたりして。
とにかく明日は絶対良い1日にしなければならない!
持っていく食事も既に用意するよう家の者に言いつけてある。
嗚呼!明日が良い日になりますように。
今夜は早く寝るべきなのだが、興奮してなかなか寝付けないかもしれない。







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