天府の地へ 天府の地へ-1


秋風と呼ぶにはあまりに冷たい風が吹き、朝には草木に霜が降りる季節となった。
尚香が去った哀しみから未だ劉備軍の面々が立ち直れずにいる頃、益州の主君劉備から突如援軍要請の急使が届いた。
突然の事に皆は哀しみも一時忘れて驚いたが、急使が携えた手紙にはまた一つ驚くような事態が書き記してあった。

―龐統戦死す。

劉備に付き従っていた軍師龐統が死んだ。
従軍中、流れ矢に当たって絶命したのだと、手紙には淡々とした文字で綴られている。
あまりにも突然な死。
味方はまず軍師を失い、士気を落とした所を盛り返され劣勢に立たされている。
手紙はさらにそう伝えている。
この報告により、ただでさえ意気沈みがちだった荊州在中の諸将らが、さらに気を落としたのは言うまでもない。
誰もが皆、龐統の生前の飄々とした振る舞いを思いだし、胸を痛めた。
諸葛亮とは違う雰囲気で、荊州の大豪族の血統の、優秀な軍師だった。
出征前の見送りがまさか今生の別れになるなどと、誰が予見出来たであろう。
もっと別れを惜しんでおけばと、悔やむ空気が荊州の地に満ちた。
しかし、急使の目的は援軍の要請である。
急遽、諸葛亮の命により主だった将官らが一堂に召集された。
勿論趙雲もそのうちの一人である。
文官、武将関係なく召集されたため、部屋には入れきれず廊下に立つ者もいる。
その中で趙雲は部屋の奥に入る事が出来た。
堂内は人で埋め尽くされて空気も澱んでいるが、文句は言えまい。

「我々は共のもとへ援軍として発たねばなりません」

人いきれがするほどの群衆の中、部屋最奥中央に立つ諸葛亮が声を発する。
決して大きくは無かったが不思議と良く通る声である。
いつもの如く、諸葛亮は黒衣に羽扇の出で立ちであった。
諸葛亮の発する一語一語に、皆耳を傾ける。
緊張した空気が場を支配する。

「荊州を空けるのも正直、不安は残りますが、ここは荊州に残る髭殿を信じましょう」

元々遠くに留任している関羽は、この場所にはいない。

「関兄者なら間違いねぇ」

比較的諸葛亮の近くに陣取っていた張飛が言った。
張飛の副将を介した隣に趙雲は立っている。
張飛よりは諸葛亮から遠い位置。
流石に、張飛の大音量の声は群衆の中にもよく響いた。
全体に賛同する空気が満ちた。
関羽は劉備軍の内でも特異な存在なのである。

「季常は荊州に残って髭殿を支えるように」

「え、私がですか?」

諸葛亮からやや離れた、文官達が固まった場所にいた馬良が答える。
眉が白いという特徴があるため、小柄な体躯ながらわりと簡単に見つけられる。

「季常になら出来ると思いますし、そちらの方が向いていると思います」

気が優しい馬良は従軍させるより、残って政治をさせた方が良いと言うのには、趙雲も同感であった。
そんな諸葛亮の思いやりが分からない馬良ではない。
若干の戸惑いはあるようだったが、馬良は最終的に諸葛亮の指示に従う意志を示した。
同じ様にそれぞれに大まかな指示を出して、今日の軍議は終わった。
軍議中、趙雲はほとんど諸葛亮の顔を見なかった。
見れなかったと言って良い。
流石に趙雲への指示を聞く時は向かい合ったが、それすらもほんの短い間のこと。
趙雲を見る諸葛亮の顔からは、申し訳なさそうな様子が滲み出ていた。
そんな顔をさせたかったわけではないのに……と趙雲は思う。
何故あんな事を口走ってしまったのだろうか。
決して諸葛亮を困らせたいわけではなかったのだが、何故かあの時は言ってしまいたい気がして、あんな事になってしまった。
結果勝手な思い込みだったわけだが、諸葛亮の方もそう望んでるのではないかという気がしたのだ。
まったく、恥ずかしい思い上がりをしたものだ。
遠征ともなれば、暫くはそれどころではなくなるのが、正直ありがたい。
内心そう繰り返しながら、趙雲は出征の準備に精を出した。


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趙雲と張飛を中心に軍団を分け、それぞれ道中の敵を撃破しつつ益州へ入るよう指示した一方で、孔明自身は敵がいないと思われる道を選び、真っ直ぐ劉備のもとへ向かう進路をとる事にした。
龐統を失った劉備は、恐らく動揺していることであろうし、総大将の動揺は全軍の士気の低下に繋がる。
とりあえず援軍が入ったと分からせる事で味方の意気も上がろうし、敵への牽制になるとふんだからである。
張飛も趙雲も、敵小隊を撃破して進むくらいならばいちいち軍師の必要も無かろう。
孔明は兵にも出来るだけ軽装をさせ、強行軍とは言わないまでもかなり駆け足に益州へと入った。
劉備の軍と合流するまでに、大した敵と遭遇しなかったのも幸いであった。
道中に点々と戦の跡をみかけ、戦闘がいかに激しかったかが自ずと思われる。
時には民家が崩された跡をみかけて、心を痛める。
劉備がはじめ益州に入ってから、既に一年以上の月日が経っていた。

「おお、孔明!!よく駆け付けてくれたな。涙が出る思いだ!」

一年以上時を跨いで久々に再会した劉備は、以前より多少痩せている様には見えたものの、あまり変わった様子はない。
これ程まで長く戦場にいるのにさほど疲れた様子が無いのには驚いたが、劉備の今までの人生を思えば、膠着状態の対陣くらいではそうも大変なものではないのかもしれない。

「殿も良くご無事で。現在の状況を出来るだけ詳細に知りたいのですが」

孔明は再会の挨拶も程々に、早速本題に入る。
荊州にいた頃から頻繁に軍の状況を伝えさせていたし、今も多すぎるくらいの斥候を出してはいたが、それでも実際に戦っていた軍の者からしか得られないものも多い。

「そう言うと思ってな、予め纏めて記しておいたぞ。これを読むと良い」

劉備が差し出した竹簡を、間も置かず読みはじめる。
それには秩序立てて良く状況が纏められており、実に分かりやすい。
劉備が書いた物ではないだろう。
筆跡が劉備のものではないが、それ以前の問題である。

「……よく分かりました。誰がこれを?」

「法正だ。字に直しておこうと提案したのも奴だ。」

法正かなるほど、と思った。
劉備が荊州を発つ前に軍議で数回話したばかりだが、冴え渡る様な切れ者であったと記憶している。
龐統が非業の死を遂げても、最悪の事態と言うほど劉備の軍が乱れなかったのは、この法正の尽力によるものであると孔明の耳に入ってきていた。

「状況はどう思う、孔明?」

「法正の方はなんと申しております?」

この竹簡を法正が記している間、法正とて何も考えなかったとは考えにくい。
法正は法正なりに自分の知識と見解を交えながらこれを書いたのであろう。
それに孔明自身、法正がなんと考えているか多少興味があった。

「芳しくはないが、難しい状況ではないと」

「同意ですね。いや、援軍が到着すれば事態は一気に改善できます」

孔明の言葉に、劉備は意外そうに眉を上げて返した。

「法正より幾らか楽観的だな」

「我が軍の強さを目の当たりにしていない法正がそう言うなら、実際はもっと上手くいくでしょう」

なるほど、と言って劉備はカカと笑った。
劉備のこう言った開けっ広げな笑いを聞くのも久々のことで、孔明の胸にじんわりと温かなものが広がっていく。

「龐統が死んだ」

笑いをおさめた劉備が、実に何でもない様子で言った。

「ええ、落鳳坡という、冗談の様な場所で戦死したのだと」

「私を怒らないのか?孔明よ。ホウ統はお前の学友であり、親戚でもあったろう」

劉備は芒洋とした薄い笑みをたたえて言った。
笑みこそ微かに浮かべているが、感情の無い顔だ。
劉備はこの顔で、己の感情を隠す術を意図せずして身に付けている。
相手の感情を見定めようとする時に、無意識にこういう表情を浮かべているようだ。
劉備は若い頃は配下に支えられるだけの能無しだと揶揄された事もあったらしいが、孔明からすれば劉備は身に付けようとて身に付くものではない何かを、沢山持っていると思う。
こういった力は、上に立つべきものが持つべくして身に付けたものだとしか、孔明には思えない。
軍師として非常に羨ましいその能力は孔明には無いので、常に羽扇を携えて必要な時は顔を隠すことにしている。

「怒るなど、私にその様な権利があるのでしょうか」

「私は結果的に徐庶に龐統、お前の親しい者をお前から奪っている」

「憎むべきは乱世でしょう。それに二人とも、自らの意思で殿に仕えたのですから、なんの後悔がありましょうや。無論、私とて同じこと」

孔明は羽扇を使うこともなく、真っ直ぐに劉備を見据えて、言った。

「そうかな」と言って、劉備は笑う。
笑う時は非常に人懐っこく笑える所がまた、劉備の才だと孔明は思う。

「正直、哀しみがないと言えば嘘になりますが、私は生来やるべき事が目の前にあると、そちらにばかり集中する頭をしているようです」

「ほう、それはありがたい事だな」

趙雲のことも――
今こうやって課題が目の前にあるから、今はとりあえず考えずにいれる。
実際に顔を合わせでもしない限りは大丈夫。
だけど状況が落ち着いたならば、ちゃんと向き合わなければならないと思っている。

「だが龐統の死を無駄にするわけにはいかないからな。出来るだけ早く決着をつけたい」

「援軍が集まり次第、反撃に移るとしましょう」

ちょうど話し終わった時、法正が幕舎に入ってきた。
孔明は入れ替わりになる形で、法正に会釈をして、幕舎をあとにした。



張飛の軍が先に、それとあまり間を置かずして趙雲の軍が無事に合流した。
各個敵を撃破という指示も遂行できたらしい。
劉備軍は、強い。
力と力でぶつかり合う様な戦なら、曹操軍にとてひけをとらないと孔明は思っている。
その力を活かすのが軍師たる己の役目……それも良くわきまえている。
張飛の軍も、趙雲の軍も、士気は高く状態は良い。
彼等の兵を一部先発組の軍へ組み込んでみた。
彼らに感化されて、疲弊している隊が元気になれば良いのだが。

「俺の軍はいつでも戦えるぜ、軍師よ」

そういう本人自身が一番暴れたくてうずうずしているのだろう、張飛が実に元気良く言いに来た。
しかし今はそういう張飛の暴力的なまでの力強さがありがたい。

「張飛将軍には、西より攻めて頂きましょう。厳顔という劉璋の宿将とぶつかるでしょう。名将だという話もありますので、油断なさらぬよう」

「心配されるまでもねえさ!荊州に残ってる兄者の分まで頑張らねえと」

援軍と合流した劉備軍の士気は上々で、多少の劣勢なら跳ね返せるだろう。
孔明は張飛を信頼する事にして、早々に進軍させた。
孔明が張飛のもとから中央の幕舎へ帰ろうとする帰路の途中に、趙雲が立っていた。
ちょうど向かい合わせになる形で歩いてきた所、孔明の姿を見つけて立ち止まったのであろう。
孔明と視線が合った瞬間、気まずそうに目をそらした。
その様な態度は、今までの趙雲ならば決してする筈もない。
そのよそよそしい態度に孔明は悲しくなり、趙雲がそうするのも自分のせいだと思うと、余計に辛くなる。
孔明が歩み寄らねば、この距離は縮まらない。
このまま黙っていては、そのうち趙雲は去っていってしまうだろう。

「子龍殿……」

孔明のそう呟いた声に反応して、趙雲の身体がピクリと反応する。
ゆっくりと顔を上げて、うかがうような目付きで孔明を見た。
少し歩を進めて、距離を縮めた。
孔明の歩幅で5歩の距離。
これが孔明にとっても、ギリギリの距離だ。
無用意に近付くのは、孔明もやはり怖い。
趙雲の精悍な顔が、伏し目がちに向けられている。
道中大した戦闘は無かったという報告は受けたが、よく見れば鎧には細かい傷や返り血がついている。
趙雲自身で槍を振るって戦ったのだろう。
それらの跡を見て無事で良かったと、今更ながら痛感した。
趙雲の強さはよく知っているし、そう簡単な事で命を落とす真似はしないと分かっている。
それでも、龐統が戦死した今では――生きている事のありがたさが身に染みて分かる。
人間は前触れもなく死ぬのだ。
まさか死ぬと思っていなかった相手が、気付いたら死んでいたなんて不条理なことが、拒否する権利も与えられずに押し付けられる。
もし、仮に趙雲が道中に命を落とすような事があったらと思って、孔明はゾッとした。
この様な形のまま永遠に会えないなんて、考えただけで身震いがする。
死んでしまった相手には、ただ後悔ばかりが残るだろう。
だから、無事に帰ってきてくれて、また話す機会を与えてくれて、本当にありがとうと思った。

「無事に到着して、ほっとしました」

この機会を無駄にしてはならぬ。
孔明は真っ直ぐに趙雲を見据えて、口を開く。

「はい、軍も大した損害は出ず……」

やはり趙雲は俯いたままだったが、孔明は構わず続けた。

「ありがとう、本当にありがとうございます……」

せめて、この想いを伝えなければ。
ただその一心で、必死に言葉を紡いだ。

なんとか吐き出した声は思ったよりも小さかったが、趙雲の反応を見て、しっかりと伝わったようで良かったと思った。
最初にまず驚いたようで、そして、今までの緊張が弛んだように、少し微笑んだ。

「私はそう簡単に死んだりしませぬよ」

趙雲の優しい声音を聞くのもずいぶん久々な気がする。
軽く涙腺が刺激されるくらい喜んでいる己に、孔明自身驚いてしまう。
やはり趙雲の優しい表情や物言いが好きだし、素敵だと孔明は思う。
精悍で逞しいのにそれでいて穏やかで、皆がそう思うかは分からないが、孔明は凄く安心できる。
改めて、傍で笑っていて欲しいと思った。
信じられない事に、向こうも自分を好いていてくれるらしい。
一生報われないだろうと思っていたのに、向こうから歩み寄ってくれた。
自分はとんだ果報者だと思う。
それでも一度、その想いを拒んでしまった、相手を傷つけてしまった。
それに、その想いに応える事が正しいのかも分からないし、自分はまだ応える事が怖いのだとも分かった。
今すぐには、無理だ。
それでも決して趙雲の事が嫌いなのではないのだと、気まずいままでいるのは絶対に嫌なのだと、分かって貰えたらいい。
自分には貴方が必要なのだと分かって貰えたら、今は。
わがままかもしれないが、黙っているのは絶対に後悔するだろう。

「それでも言いたいのです。生きていてくれて、ありがとうと」

改めて孔明が言うと、大袈裟ですなと、趙雲は少し照れたように頭を掻いた。
そんな微笑ましい姿を見てまた、嬉しい気持ちになる。
自然に孔明の口許も上がる。

「まだ戦は続きますが、決して怪我などなさらぬよう……」

「勿論、そのつもりでございますよ」

「事態が落ち着いたら……、貴方とゆっくり話したい」

趙雲がハッと目を見開いた。

「孔明殿……」

「私は臆病です。それでも、臆病ながらに頑張りたい、と思います」

「……人は皆臆病なものですよ」

「貴方がその様な事を言うなんて」

「私は臆病ですよ。戦に関しては多少慣れただけで」

顔を見合わせて、お互いに少し笑う。

「ならば尚更のこと、この戦を早く終わらせねばなりませんな」

趙雲が高い位置を見上げて言った。
そうだ、この長引いた戦を早く終わらせねばならない。
民のためにも、劉備のためにも、今向かい合うこの人のためにも、そして自分のためにも。
益州の曇りがちな灰色の空から、一筋の光が漏れ落ちる。
雲の切れ間から覗く青空が、これからの快晴の天気を予想させる。
この青空が、我々の行く末の暗示であれば良いのに、と思う。




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