天府の地へ 天府の地へ-2


軍師の龐統が戦死し、益州攻略にも暗雲が立ち込めたかのように思われた劉備軍だったが、もう一人の軍師諸葛亮と諸葛亮が引率してきた援軍の活躍により、戦況は一気に好転した。
徐々に徐々に劉備軍は益州の中心都市成都に迫り、長かった益州攻略もようやく終わりが見え始めている。
逆を言えば劉璋にとってみれば後がない状況になっていることになる。
追い込まれた人間は、思いもよらぬ手を打ってくる。
上々な戦況に反して、軍師の諸葛亮は何かに警戒している風に見える。
法正も同様であるようだった。
趙雲は注意深く彼等軍師を―というか、実際はほとんど諸葛亮を観察していたため、彼等に倣って何かあるものだという心構えで戦列に加わっている。
結果、軍師達の危惧は杞憂というわけにはいかず、実現化して劉備軍に襲ってきた。

――劉璋が漢中の張魯と手を組み、援軍を要請。

法正が放っていたらしい斥候が、慌てた様子でその報を陣にもたらした。

「まさか、張魯と手を組むか!」

実際に劉備に報告をしたのはその斥候ではなく、斥候から報を受けた法正だ。
たまたま趙雲は劉備の幕舎にいた。
どうせすぐ皆にも公表することだからと、劉備と一緒に聞く事を許されたのである。

「事を決めたのは数日前でしょうから、既に張魯は援軍を向ける準備をしているでしょう」

法正が言う。
法正は元々蜀の人間故、彼が放つ斥候も蜀の色々に通じており、信頼度は高い。

「これはいかん、なんとかしなければ。孔明はどこだろうか」

「兵糧の確認に行くと言って出ておられるようですが」

「即刻呼び戻さないと」

「私が呼んで参りましょうか」

趙雲が言うと、劉備と法正が同時に趙雲を見た。
今部屋の内には劉備と法正と趙雲の三人しかいない。

「頼めるか、子龍」

「お任せあれ、すぐに戻ります」

「お願いします」

法正にも言われ、慌てて趙雲は劉備の幕舎を後にした。



言われた通り、孔明は兵糧倉庫の陣にいた。
相変わらずの黒衣で一見すれば目立たないのだが、趙雲はすぐにその姿を見つけられる。
自慢にもならないなと、趙雲は一人で苦笑した。

「軍師殿!」

大声で呼び掛ける。

「えっ、し、趙雲将軍?」

思いがけない相手の出現に、諸葛亮は純粋に驚いたようだ。
兵と何かを確認していた所だったようだが、こちらも一刻を争う。

「殿がお呼びです。ただちに殿の幕舎へ急がれますよう」

そう趙雲が言うと、諸葛亮もすぐに真面目な顔に戻る。
事態の逼迫さを感じ取ったらしい。
さすが、察しが良くて助かる。

「殿が?分かりました、すぐに向かいましょう」

趙雲と、同時に話していた兵達に向かって告げる。
そのまますぐに趙雲と並んで歩き出した。
走るという早さではないが、かなり急いだ歩調。

「貴方も戻るのですか?」

諸葛亮が前を見据えたまま、尋ねた。

「え?ええ。すぐに戻ると言って残して来ました」

「殿の幕舎にいたのですか?」

「はい、偶然」

諸葛亮は何の用で?と訊きたそうな顔を一瞬こちらに向けたが、今はそれどころではないと判断したのか、それ以上は訊いてこなかった。
趙雲としてもありがたい。
かなり急いで歩いたため、あっという間に幕舎についた。
諸葛亮はだいぶ息が上がっていたので、歩調が速すぎただろうかと少し反省した。

「殿、お待たせ致しました」

咳払いをしてから、諸葛亮が言った。

「おお孔明。待っとったぞ、単刀直入に言うが、劉璋が張魯と手を組んだ」

劉備が抱きつかんばかりの勢いで諸葛亮に駆け寄った。

「なんですって?」

「我等を追い払った暁には、領土を少し分けてやるという条件だそうだ」

諸葛亮は近すぎる劉備との距離から一歩引き、同時にため息をついた。

「……劉璋と張魯が手を組む可能性も充分あり得ると思っておりましたが……」

「そうなの?だって両者はずっと小競り合いを続けておったではないか」

「はい、ですから長年の敵に領土の割譲を条件に援軍など、士としても劣る上に愚の骨頂です」

諸葛亮の言葉に繋げる様に、法正が声を上げた。

「今我々を撃退したとしても、事態は悪くなるだけの策故に、そこは選んで来ないであろうと思っていたのでしょう?諸葛軍師」

「ええ、その通りです」

諸葛亮と法正のやり取りに、趙雲と劉備は目を丸くした。
軍師二人は劉璋と張魯が手を組む可能性を考えた上で、それは愚策だから劉璋は選ばないと判断していたらしい。
武将連中はとりあえず仲が悪い両者が手を組む可能性すら考えてなかった。
そもそも劉備が益州に呼ばれた理由が張魯討伐だったのだから。

「とにかく、成都の包囲を一旦解いて張魯の軍の迎撃に備えましょう」

「包囲を解くのか?孔明。張魯の軍は蜀の桟道を越えてくる。そう大軍は送れまい」

「それはそうですが、関所で食い止めねば挟撃の形にもなりかねませんし、それに……」

「それに?なんだ」

「錦が出てきたら嫌な気がします。ああいう手合いはいるだけで戦局を左右します」

「……錦、ですか?」

「馬超ですよ、西涼の雄馬孟起」

趙雲の疑問に返したのは諸葛亮ではなく法正だった。

「自分の戦にかまけて失念していたな!そう言えば馬超は今張魯のもとにいるのだったか」

「まだ我が軍は西涼兵と戦った事がありませんし、馬超が出るだけで敵の士気が上がるかもしれないのも痛い。故に、関所で蓋をしてしまいたいところです」

「うん、そうだな、なんか怖いし対策は取っておこう」

「諸葛軍師、誰を派遣しますか?」

「張飛将軍でよろしいのでは?張飛隊の兵は状態も良いし、馬超の名にも怖じないでしょうあの人ならば」

「あっはは、我が義弟なら間違いない」

「そうですね、私もそれでよろしいかと」

この時趙雲は自分がやると表明しても良かったのだが、そういった自己主張はあまり自分の役目でもないと思うので黙って聞いていた。
それともう1つ、諸葛亮が何やら考えがあるのではないだろうか……。
諸葛亮の表情を間近で見ていてそう感じたのだ。
故に、この場では何も言わずに黙って聞いていた。




その夜、趙雲の幕舎に訪ねる者があった。
見覚えがある男……諸葛亮の侍従の一人だった。
主が幕舎へ来るよう呼んでいるという。
己の勘が外れていなかった事の喜びが出てしまわぬよう噛み締めて、急いで趙雲は諸葛亮の幕舎に向かった。

「よくぞお出でくださいました、子龍殿」

幕舎に入ってまず、趙雲は驚いた。
諸葛亮はいつもの如く黒衣に身を包み羽扇を携えた姿で待っているかと思えば、全くの違う姿で立っていたからだ。
どちらかと言えば粗末な装いで、冠も外して麻布で髪を包んでいる。
寝間着なのかと一瞬思ったが、それにしては脚絆を巻いていたりと、むしろ今からどこかへ向かう様な出で立ちである。
しかし、こんな夜更けにどこへ出掛けるというのだろう。

「こ、孔明殿……?何の用でございましょうか」

諸葛亮は豪奢ではないけれども質の良い衣服が似合うだろうと思っていたわりには、この様な格好も馴染んでいる。
そう言えば昔は決して裕福ではない生活を送っていたというから、そのためだろうか。

「こんな時間にお呼び立てして申し訳ありません。しかし、こんな事を頼めるのは貴方しかいなくて」

思いがけぬ言葉に、趙雲は嬉しくなる。
諸葛亮にこう言われては、どんな事も引き受けてしまいそうだ。

「私に出来る事ならばなんでも」

「私は今から馬超の元へ行きたいのですが、流石に一人では不安なので一緒に来てもらえますか?」

「…………え?えっ?」

前言撤回、流石に引き受けられない事がある。
自分はともかく諸葛亮の身を危険にさらすような事は駄目だ。

「正気ですか?というか、何をしに……」

「こんな時に戯れ言を申しませんよ。勿論、馬超と話に行くのです。面会は向こうからの提案です」

孔明が部屋の奥に視線を移す。
すると、部屋のすみに男が一人立っている。
灯りが乏しく、すぐには気付かない。

「あの者は馬超からの使者です。今から馬超の元へ案内すると」

男が、ゆっくりと灯りが届く範囲へ進み出た。
光の無い漆黒の髪に、浅黒い肌をしている。
着ている服にもどこか変わっている所を見ると、羌の血が混じった者だろうか。
背は趙雲や孔明より頭1つ分はゆうに低く、あまり体格が良いとは言えない。
年もかなり若く見える。
「ち、ちょっと待ってください孔明殿。あまりに話が性急過ぎます。何故馬超が貴方にその様な事を」

「……私は以前から、と言っても益州へ入ってから以降の事ですが、馬超と元から便りを通じていました」

「……えっ?」

「劉璋が張魯と結ぶ可能性が棄てきれなかったので、予め動いておいたのです」

なんということであろう。

「馬超の方も、張魯からの扱いに満足していたわけではない。故に、我々は手を結べるのではないかと思って」

「そうでしたか。いやはや、なんとも」

「まだ双方探りあいの段階だったのですがここにきて劉璋と張魯が手を組んでしまいました。だから、時間が無いのです。客将の馬超は真っ先に派兵される可能性が高いので」

「……なるほど、それは分かります。しかし、貴方自身が行くというのを私は賛成できかねます」

「…………」

「他の者を使者にするではいけませんか?私が一人で行っても構いませぬ」

「この件は、私が単独で進めていた話です。私が行かなくては信用に関わります」

諸葛亮の言い分が理解出来ない趙雲ではないが、そう易々と認められる事ではない。

「しかし、こんな事で貴方を喪うわけには参りません。今や張魯は我々の敵です。その下にいる馬超も」

「私はむしろ、そんな状況だからこそ話す価値があると思います。馬超にしてみれば、張魯が敵になった状況であれば、より自身の離反の価値が上がるわけですから」

「それは、確かに……」

「先方も張魯の陣から離れてかなりこの益州の方へ脚を伸ばしてもらっているのですから、状況は同じです。それに、道中貴方が兵を伏している様に感じたならばすぐに引き返しましょう」

「……間違いないですな?」

「ええ、勿論」

軍師のなりはしてはいないが、諸葛亮の舌の冴えは揺るぎがない。

「……私の指示に従って下さる事が条件です」

「ありがとうございます」

微かに、諸葛亮の顔が綻ぶ。
こういう時はもっとハッキリ喜べば良いのにと思う。

「貴方が我が軍にとってかけがえの無い方だと言うのは失念下さいませぬよう」

「承知しております」

「……あと、軍とは関係なく、私は貴方を喪いたくない。貴方に何かあったら私は……」

「しっ、子龍殿っ!」

慌てた様子で諸葛亮が部屋のすみを見る。
羌族の男がいた事をすっかり忘れていた。

「早く出発しませんと夜が明けてしまいます。良ければもう出ませんか?」

男は何事もないかのように答えた。
出来る男だ……と、とりあえず趙雲は男の反応に感謝したが、そのあと暫く諸葛亮には睨まれた。




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