天府の地へ 天府の地へ-3


三人はこっそり下手に周りに気付かれぬように陣を抜けた。
陣から暫く歩いた所に馬が繋がれていた。
二頭…どちらも体格の大きな、名馬と呼んで差し支えながない立派な姿をしている。
趙雲の愛馬より大きいかもしれない。

「二頭……」

諸葛亮が呟いた。
馬は二頭、こちらは三人。
数が合わない。

「諸葛亮殿の事しか考えておりませんでした。申し訳ない。ですが良い馬ですので大した距離でなければ男を二人乗せて走れましょう」

「では私は子龍殿の後ろに」

「えっ、私と共に乗りますか?」

嬉しい申し出だが、少し戸惑う。

「体重から言えば私と諸葛亮殿が一緒に乗るのが良いと思いますけど」

羌の男が言う。

「不躾な事を申しますが、流石に貴方と二人で馬に乗る勇気はありませぬ」

「ええ、そうでしょうね」

ああそうかと、遅れて理解する。
諸葛亮を乗せた馬が勝手に趙雲から離れていっては、どうしようもない。
それに背に諸葛亮がいた方がいざと言う時守りやすい。
常識的に考えればすぐに分かる事なのだが、諸葛亮と二人乗りという状況に動揺した己が恥ずかしい。

「では、私が先行しますのでついて来ていただけますか?」

「あまり早くは進まないでもらいたい」

「羌の馬術について来られるか不安ですか?」

「……残念だが生憎私はその様な挑発にのる男ではない。こちらは二人、おまけに夜だ。それに、辺りに警戒して進まねばならぬ」

暗闇で良くは見えないが、羌の男は満足げに笑ったようだ。

「諮る様な真似をして申し訳ありません。私も夜の山道を駆ける自信はありません」

約束の通り、男は趙雲が容易について行ける早さで進んだ。
とは言え、道を照らすのは空からの月光と諸葛亮が灯した小さな手燭のみ。
慎重に進まねばならない。
そんな決して楽ではない道である筈なのに軽やかに進んでいくあたり、やはり男の馬術はかなりのものであるらしい。

「あの男、何者でしょうか」

聞こえない大きさで、後ろの諸葛亮に問う。

「さあ、馬超の手の者に直に会うのは私も今日が初めてです」

「私が来るまで幕舎の中で二人きりでおられたのですか?」

「ええ。外には侍従を立たせていましたが」

「良くないですね、危険です。あの男、私が部屋に入っても暫く存在に気づけなかった。気配を完全に殺していた」

いくら幕舎の中が暗く、見通しが悪かったとしても、そんなくらいで気配に気付けない趙雲ではない。

「……私にはそういうの、良く分かりませんが、あの者が私に何かするとは思えませんでした。なんというか、単純に殺気がないというか」

「…………」

諸葛亮の言う事も、趙雲には分かった。
趙雲はチラリとでも殺気を感じたならば、相手に剣を抜かせる隙も与えず斬り捨てるつもりでいた。
しかし男は会話の端々にこちらを諮る様な空気を出しつつも、害そうという気は微塵にも感じられなかった。

「馬超の方も、和やかに話してくれると良いですな」
「文を交わしている分には悪い感触は無かったのですけども……」
「相手は一応名族の人間ですから、矜持が強い男かもしれませぬ」
「それはありますね。……錦と呼ばれる男ですから、どういった男なのか、私には分かりません」
「その錦というのは、なんです?」
「西涼の馬超を良く知る者の間では、そう評する者がいるそうで。面白いので私も使っています」
「ふうん……」
男が錦とは、ちゃらちゃらしてる様にも感じて、趙雲的にはあまり良い印象はない。
「振る舞いだけでなくその姿も立派な故に、錦、だそうです。どの様な男なのでしょうね、楽しみです」
素直に楽しみにしている様子が伝わって、なんだか面白くない趙雲であった。
「そろそろ着きますよ!」

少し離れて前を行く男が、振り替えって二人に告げる。
言われてみると確かに、前方の木々の合間から光が漏れている。
松明を炊いているらしい。
趙雲は慎重に辺りの空気を確かめる。
が、兵を配している気配はおろか、前方の光の方からも大した人の気配が感じられない。

「……とりあえず、今の所妙な真似はしていないようです」

趙雲が言うと、応えるように諸葛亮は趙雲の腰に回した手に力を込めた。
こんな状況では、せっかくの二人乗りの機会を楽しめないのが残念である。

ずっと暗闇の中を進んでいたため、決して多くはない松明の灯りの数に、眼が眩む。
目をならしつつ、ゆっくりと光の中へ馬を進めた。

「ただ今劉備軍が軍師、諸葛亮殿を連れて戻りました!」

先に馬に降りていたらしい男の声が聞こえた。
男が案内したこの場所は、ちょうど少しだけ木々が生えていない小さな広場の様になっていて、先方はそこに簡易な机や椅子などを用意して、面会の席を作っていた。
幕舎なども作っていない、星空の下の席である。
眼が慣れてくると、松明の光も大した強さでは無かったことが分かった。
あまり明るくしては、ここからそう離れていない劉備軍の陣に見つかってしまうから、当然の処置であろう。

「おう、待っていたぞ」

二つ向い合わせで設置された席に一人、既に座っている男が答えた。
趙雲と諸葛亮が馬を降りると、男も立って、こちらを見ている。
平均より背は高いが、趙雲よりはだいぶ低いくらいであろうか。

「む?二人か」

諸葛亮がその声に答えて前に進もうとしたので、趙雲は慌ててそれを制した。

「こちらが軍師の諸葛孔明殿におわします。私はその護衛にて」

「護衛か、なるほど。流石に一人で来る勇気は無いか」

「それは勇気とは申しませぬ。蛮勇という類いのものでございましょう」

諸葛亮のゆるりとした声に、男は不服そうにフンと鼻を鳴らした。

男が再び席についたのを見計らって、諸葛亮にも席に進ませた。
男と、諸葛亮が席に向かい合う形で座っている。
その間に趙雲は辺りをうかがってみるが、最初に感じたままにやはり人の気配は少ない。
二人を連れて来た男に、今席についている男、あと数人男の後ろに控えている兵が全てのようだ。
張魯の陣からだいぶ離れて来たであろうに、これだけの数の護衛しか連れて来なかったのは度胸があると認めて良いだろう。

「私が馬孟起だ」

諸葛亮と向かい合った男が言う。

「貴方が、馬超将軍……」

やはりこの男が馬超か。
諸葛亮の後ろに控えた趙雲も、興味深げに馬超を観察する。
先程も言った通り、身体は趙雲よりは小さいくらいに見えるが、漢服とは少し異なる服を着ているため、身体の線は良くわからない。
案内をした男と同じ、光を吸収するかのような漆黒の髪を、一つにして束ねている。
羌の人間が皆こんな顔なのかもしれないが、案内した男とかなり似た顔の造りをしている様に感じる。
しかし似た顔をしていながら、馬超の方は何故だか華やかな印象を与えるのが不思議だった。
顔は、世間的に見ても整っている方だといって良いだろう。
なるほど錦か、と言われれば納得出来る様な気もする。

「此度はこの様な席を設けて下さり感謝しています、馬超殿」

「こちらとしても張魯の扱いに満足はしてあらぬ。そちらの私達の扱いによっては劉備軍に与すのもやぶさかではない」

口調自体は名族の生まれらしく整ってはいるが、馬超の喋りはどこか高圧的だ。
しかし諸葛亮はそれに苛立つ様子もなくにこやかに聞いている。
いつものように羽扇を持っていたならば、優雅に口許で揺らめかせていたことだろう。
向かい合う二人の態度は対称的なものである。
しかし、両者とも微かに相手を挑発するかのようである。
互いに探りをいれあっているらしいのは何となく趙雲にも分かる。

「私が劉備殿に協力を申し出たとしたら、劉備殿はどう私を扱ってくれる?」

「この件は劉備殿にはまだ何も話しておりませぬ」

「ふん?」

「ですが、この私が悪いようには致しませぬ」

「ならば言うが、我々は劉備殿の配下になるつもりはない事は理解して頂けるか?」

「なっ」

思わず、趙雲が声を出してしまったが、諸葛亮の方はなに食わぬ顔で馬超を見ている。

「我々には既に孫権軍という『同盟相手』がおります。そちらに並ぶ形でよろしいのでございましょう?」

馬超の眉間が、ピクリと反応する。

「貴殿等と孫権軍は荊州で小競り合いを続けておられるようだが」

「同盟とは、同じくする敵に対し手を組んで共に戦う者であると、我々は理解しておりますが」

故に、互いが戦う事もなくはない。
諸葛亮は口に出してはいないが、言外にはそう物語っている。
つまり此度の場合、張魯を撃退するうちは手を組むが、その後の恒久的和平は約束できないということになる。
馬超も、それを理解しているらしく、鋭い視線で諸葛亮を睨んでいる。
しかし諸葛亮は実際は、孫権軍との同盟をそういうものとは考えていない筈だ。
少なくとも、互いが領土を争う事の無い同盟を、諸葛亮個人は望んでいる筈である。
馬超を試しているらしい――趙雲は黙ってことの動向を見守る事にした。

「張魯を討った後は、我々か?」

「我々の眼前の敵は劉璋であり、張魯と、ましてや貴方と一戦するつもりなど毛頭ございませぬ」

「…………」

張魯を迎撃したならば、劉備軍はすぐ成都の包囲に戻る。
漢中の方面へ兵を送る事は当分は無いだろう。
つまり、逆を言えば張魯を撃退さえしてしまえば馬超軍と劉備軍は協力の機会は無い。
馬超は単独で張魯と戦うことになる。
対等の同盟であるという事は、そういうことになる。

「見た目に反してなかなか毒を吐くな諸葛亮殿」

「毒など、そのようなつもりは」

「…………」

空気が一気に張り詰めてきた。
趙雲も、もしもの時に咄嗟の行動がとれるよう、油断はしない。
馬超の奥でも、あの例の馬超に良く似た男が剣の柄に手を置いた。
趙雲の動きに合わせたものらしい。
視線が合うと、にっこりと笑って返してくる。
やはり殺気というものが、この男からは感じられない。
出来れば乱闘沙汰は避けたいものです―、男の眉下がりの笑みは、そう言っているかのようである。

「私は、馬超殿のためにも我が軍に下られるのがよろしかろうと思います」

「……聴こう」

「我が軍に下るというならば、益州を押さえた暁には貴方の所領も認めましょう。しかしあくまで独立を貫くというならば、あなた方は張魯と単独で戦わねばなりますまい。我々は蜀の桟道を越えねばならぬ関係も考え大軍は送れませぬ」

馬超は、苛立ってはいるようだが静かに話を聞いている。
矜持は強いものの、馬鹿ではないらしい。

「我々のもとへ来て下さるなら、我々もあなた方を護る事が出来ます」

「護るだと」

「勿論、それは此度馬超殿が張魯を離れて我々に協力をしてくだされば現実味が増す計算でありますが」

しかし並の者では諸葛亮の口に敵うはずもない。

「贅沢を言っている場合でもありますまい」

思わず、趙雲が口を出してしまった。
いや、会見はもう言いたい事を言い終わってはいるのだと思う。
馬超はそれでもなお、迷っているのだ。
ここから先は、正面からぶつかるしかあるまい。

「なんだと」

「貴殿が残り少ない西涼兵配下を守りたいと思うならば、貴殿が決断をしなければならぬのではありませんか。我々に下る事が、兵を護る事に繋がるのでは」

「大層な口を利く男だ、何者だ」

「劉備軍が将、趙雲、字を子龍申す」

「趙雲だと―!?」

馬超がハッと顔を上げた。
どうやら名前くらいは知っていてもらえたようだ。

「どうりで」

後ろで立っている男が笑っている。

「なんだ馬岱」

「いえ、並の人ではないと思っていたので。いやあこの人と斬り合う事にならなくて良かった。命がいくつあっても足りない」

後ろの男は馬岱というらしい。
同じ姓である所もみると、やはり馬超と同族であるらしい。

「字までは存じ上げなかったので」

馬超に比べると随分と空気の柔らかな男である。

「口を出させてもらったついでに言わせて頂きます。従兄上、この馬岱は劉備軍に下る事に異論はありませぬ」

「馬岱!!」

馬超が立ち上がる。

「私は何食わぬ顔でこの方々の会話を聞かせて頂いてますが、我々を騙そうだとか、少なくともそんな悪どい方ではございませぬようで」

そう言えば随分とこの男の前で喋ってしまった気がする。
まさか馬超の親族だとは思っていなかったからだ。

「それに、馬岱はこの方々、嫌いではありませぬ。陣も見ましたが、よく整備されていて良い陣でありました」

「…………」

思いがけぬ展開だが、ありがたい事には代わり無い。
もっと言ってくれ、と趙雲は内心必死に応援をしていた。

「我が主劉備殿にとって、曹操は相容れぬ仇敵にございます」

諸葛亮が一歩一歩、馬超の近くに歩み寄る。
危険だと思ったが、馬超の目に剣呑さは無いと感じて、事態を見守った。

「我々の目的は同じはず。我々は……仲間になれないのでしょうか?」

「……私は……」

「従兄上……」

馬岱がそっと、後ろから馬超の肩に手を置いた。
二人の目が短い間交わる。
その視線が何を語り合ったかは趙雲には分からなかったが、振り返った時馬超の目から迷いは消えていた。

「我々は劉備殿にくだる」

「!」

「馬超殿」

趙雲と孔明が、同時に息を飲んだ。

「従兄上……」

「私はいつ降れば良いか」

「明日にでも、使者を送りましょう。その時正式に我が軍に迎えましょう」

「明日?随分と急ではないか」

「馬超殿が降ると聞いて、反対する者は我が軍にはおりますまい」

そうだな、と馬超は小さく笑った。

「では明日、迎えを待つ」

「ええ、仲間として迎えに参ります」

諸葛亮と馬超は、互いに拱手を交わしてから、それぞれの陣地へと帰っていった。



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