「ば・ちょ・う・が・く・だ・る・だとぉ~!??」
翌朝、早速諸葛亮は劉備に馬超の件を話に赴いた。
趙雲は陣に戻ってから仮眠をとったのだが、諸葛亮はそれからも細々とした手続きを済ましていたらしく、結局徹夜であったらしい。
元々良いとは言えない顔色が、今朝は一層くすんでいるように見える。
しかしそれに対して表情はいつにないほど明るい。
他の者はそうは思わないかもしれないが、趙雲から見たら驚くほど明るい。
その顔が見れただけでも昨夜の危険を承知での会見には価値があったと思えた。
「馬超は以前から張魯のもとで冷遇されており、かねてから我が軍に帰順したいと申し出ておりました」
諸葛亮は流石に興奮を表にだすような真似はせず、理路整然と馬超の投降について一つ一つ丁寧に劉備に説明をしていった。
「そ、そうなのか?孔明」
「今日改めて此方から帰順を促す使者を送れば、きっと誘いに乗るでしょう」
「そ、そうだな……そうかもしれん」
劉備は突然の事に驚いたようだが、状況的にありえない事ではないと説得されて、一応は納得したらしい。
「使者はどうする」
「私が参ります。護衛に趙雲殿を」
「そ、その様な……危険じゃあないか」
「ご心配ならば兵をつけて頂いても構いませぬ。ですが、使者の代表は私にして頂きたい」
「何故だ」
「私が馬超殿と主だって話をつけていたからです」
「…………」
劉備は驚くというよりは呆気に取られた様な顔をしている。
その隣で、法正はまだ納得がいかないような表情をしていた。
「孔明がそう言うのならそうした方が面倒が無いって事なんだろう。よし、孔明に任せる」
「り、劉備殿。正気でございますか」
「おう法正、乱世は多少酔狂でなきゃやってられねえさ」
劉備の返答に、法正は益々目を丸くした。
法正の元より丸々とした瞳が更に丸みを帯びたので、趙雲は内心笑いを堪えるのに必死だった。
人間らしい表情をすればなかなか可愛らしい顔をしているではないか。
「ありがとうございます、劉備殿」
孔明の拱手に、劉備は満面の笑みで返した。
あたたかな、こちらへの信頼を感じさせる微笑みである。
「子龍、くれぐれも孔明に何か無いように護ってやってくれ」
「御意に」
言われなくとも、死んでもそんな目に合わせるつもりはない。
もっとも、馬超達がそんな暴挙に出ない事は趙雲はよく承知しているのだが。
諸葛亮と趙雲は数十名の兵を引き連れて、国境沿いにまで進んだ。
先に馬超のもとに走らせた使者は、既に馬超の元へ着いただろうか。
馬超達が現れるまで、諸葛亮達は国境付近で陣を張り、やって来るのを待つつもりであった。
しかし、向こうは先に国境付近で待っていたらしい。
諸葛亮隊が目的地についてほどなくすると、向こうから馬超と馬岱を先頭にゆっくりと隊が迫ってくるのが見えた。
人数の割りに圧倒的に騎馬の数が多い。
それも、どの馬も一様に立派な姿であるためその光景は壮観である。
とりわけ馬超の乗った白地に斑の入った馬は、体が大きく逞しい。
馬超馬岱、以下兵達も帯剣はしているが全く殺気は感じられなかったので、趙雲は諸葛亮が彼等に近付く事を何も言わずに許した。
「張魯のもとが余りに居心地が悪い故、調練と称して出てきてしまった」
馬上の馬超が憮然とした口ぶりで言った。
「張魯の配下に従兄上を良く思わない者がおりまして、今朝も張魯の前である事ない事言っておりましたのです」
補足するように、馬超の隣の馬岱が言う。
馬超は昨夜の闇夜の下で見るよりずっと晴れやかな印象で、長く束ねた髪も、漢の者からするとやや奇妙な服装も、背にたなびく直垂も全てが馬超という一人の人間を上手に構成しているように感じる。
なにより騎馬をする姿があまりにさまになっていて、なるほどこれは錦と呼ぶに相応しいと、趙雲は素直に感心した。
長い黒髪の合間からのぞく金色の耳飾りが、時おり光を受けて目映く輝いている。
趙雲とて周りから良い男振りだの、容姿に優れているだの言われるが、馬超のように衆人の中で人目を惹く華やかさは持ち合わせてはいないと自覚している。
劉備もきっとこの馬超の華やかさに惹かれるだろうと思った。
「全ての兵は連れてはこれなんだが、時期を見て陣を抜けてくるよう示し合わせてある」
「承知いたしました。馬超殿の兵と確認出来た者は寛容に受け入れた後、馬超殿の隊に組み入れましょう」
諸葛亮の言葉を聞いて初めて、馬超と馬岱はほっとした様に微笑んだ。
馬超が緊張を解いた顔をしたのは、この時が初めてだった気がする。
馬超が我々の仲間になったのだ……実感として感じられた。
暫くそうやって安堵した表情の二人であったが、劉備の陣に入ると流石に緊張した面立ちに戻った。
緊張しているのは馬超の兵達も同様である。
興味津々な顔で馬超達の様子を見学に来ていたらしい張飛の姿を見て、少しおののいた兵もあったようだ。
趙雲から見たらまだ厳めしくない表情をしていたように見えたのだが、なにぶん相手は張飛であるが故に仕方がないというものだ。
馬超と馬岱の緊張は、劉備の待つ幕舎に入る時点において、とうとう最高点を迎えた様である。
馬岱はまだ柔和な雰囲気だからまだ良いが、馬超の方は人によっては喧嘩を売られているのではと勘違いするのではないかと思うほど、険しい。
生まれが良いだけに、態度に尊大な面があるのにも問題があろう。
しかしそんな態度であった馬超が、劉備の空気に振り回される姿は、思わず笑ってしまいそうで、なんとか趙雲は歯をくいしばって耐えた。
「お前が馬超であるな!なるほど良い男振りをしている!」
劉備は幕舎に馬超が入ってくるなり馬超にズイと近寄って、馬超の腕をバンバンと叩いた。
「は、はあ。我こそが馬孟起……」
「固い挨拶は要らない!あ、いや名門の人間からしたらそっちのが喋りやすいのか?すまん、私の方がそういうのが苦手でな」
「あ、いえ」
馬超はしどろもどろな様子で短く答えた。
「そちらは誰だ?」
「孟起殿の従兄弟にあたります、馬岱ともうします」
「馬岱?従兄弟か、なるほど良く似ている」
ふと隣を見ると、諸葛亮も口元に当てた羽扇の奥で、笑いを堪えているようである。
「私はお前達を歓待するぞ。良く来てくれた!感謝しよう」
劉備とて馬超達の緊張を解くためにあえて朗らかに振る舞っているのであろう。
しかしそれにしても劉備は初対面の相手の懐にスルリと入り込んでくるのが上手い。
それこそが趙雲が劉備を慕う、最大の美点である。
劉備の傍は居心地が良いのだ。
故郷を失った馬超や馬岱にも、その温かさを知って欲しい。
「馬超達が仲間になってくれたら百人力だ」
「ありがたきお言葉。我々も一刻も早く役に立ちたく思う故、いつでも前線に送ってくださればと」
「戦う必要はございますまい。馬超殿の威名だけで劉璋は諦めるでしょう」
劉備の奥に立っていた法正が、初めて話に加わった。
朗らかな劉備の隣で法正だけはずっと難しい顔を崩さなかった。
「馬超殿は包囲網の前線に行き、劉璋を威嚇して下さるだけで結構です。ただでさえ永らく包囲されていた上に援軍に来たと思った馬超軍が我等についたとあれば、士気も持ちませんからね」
「そうだな。益州を暫く戦地にしてしまった。成都くらい、流す血を最小限に留めたい」
馬超は、幕舎の入り口に立つ孔明の方を振り返って見た。
孔明もそれに頷いてみせる。
それを見た馬超は納得した様子で再び劉備の方に向きなおった。
「それだけであれば、今すぐにでも出られます。我が隊は精強屈指の西涼兵。成都まではあっという間です」
「おお、頼もしい事を言ってくれる。ならば早速向かってもらおうか。この長き戦を、早く終わらせたい」
馬超は毅然とした顔で拱手を掲げ、一礼した。
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法正の思案通り、馬超が成都包囲網の最前線へ行き、投降するように促すと、情けないくらいに呆気なく、劉璋は門戸を開いた。
劉璋は片肌脱いだ自らの身体を縄で縛り、供に益州牧の印を携えさせて、成都城の中央通りに腰を置いていた。
劉璋の後ろには、正装をした文武百官が同じく膝を折った状態で劉備を待っていた。
百官の顔は、哭く者、安堵した者、とにかく疲労が見える者、様々である。
ざっと見渡しただけでも、益州の人間は華北の人間より一回り小さいような印象を受けた。
張飛や関羽は勿論、趙雲や諸葛亮と並ぶ大きさの者は見当たらない。
魏延でさえも、この中に入れば一目で目につく大きさに見える。
「あんたが劉季玉殿か」
劉備が、膝をついたままのの劉璋に歩み寄り、言った。
趙雲も、もしもの場合を怖れて劉備に従って続いた。
居並ぶ百官の間に出来た一つの道の真ん中に、劉備と趙雲だけがポツリと立っている。
「いかにも、私が劉季玉でござる」
劉璋は地面に向かい頭を擦り付けるように叩頭した。
体自体は肥えて恰幅が良いが、群衆の中ではなんとも小さく見える。
これが、一州を束ねていた者の姿である。
乱世とはいかなるものか見せ付けられたようで、勝ち戦であるにも関わらず、趙雲は手放しで喜ぶ気持ちにはなれなかった。
「頭を上げてくれ季玉さん。私はあんたより偉いわけでもない。ただ戦であんたの国を奪った、それだけだ」
「と、殿!?」
「良いこととは言えないだろうが、必要なことだったんだ。我等の躍進と大義のためにな。降伏を決断してくれて感謝する」
「…………」
劉璋は言われた通り頭を上げたものの、俯いたまま何も返さない。
「せめて良い土地にするから、見ていてくだされや」
劉備が傍らの兵になにか指示を出すと、その兵達は劉璋を立たせてそのままどこかへ連れて行った。
劉璋の命は奪わない。
益州の僻地で家族と静かに暮らさせるのだと決めていた。
「我こそが漢の皇叔、劉玄徳である!!」
劉璋の姿が消え、場が再び静寂に包まれた頃、劉備が叫んだ。
「今より天府の地益州は我が領地となる!しかし漢の国地であることには代わりはない!」
劉備の声は、不思議とよく通る。
孔明のそれと違って、腹に響く。
「私が目指すのは漢の復興!!そのためには益州はより豊かにより強くあらねばならぬ!!」
場に集まった数千数百の人間の視線が、一斉に劉備に集まっているのが分かる。
傍に立つ趙雲の総身にも、思わず緊張が走る。
「私は益州を良い国にしたい!その意志には寸分の曇りはない!しかし私は非力だ!時に逃げ時に裏切り、配下の支えがなければとっくに路傍の露と消えていたであろう!」
劉備軍の将達も、劉備の口上を見守っている。
「我にはそなたらの力が必要なのだ!漢に益州が必要なように、私には!将の!官の!民の!そなたらの力が!必要なのである!」
諸葛亮が隣を見ると、張飛はいかめしい顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
関羽がいれば、きっと静かに泣いていただろう。
「だから、私に力を貸してはくれまいか……」
劉備が最後、呟く様に吐いた。
先程までの口上に比べて、ずっと小さく頼りない声であった。
それなのにこの場の皆にこの声が届いているような、不思議な、神聖な空間だった。
「この身尽きるまで従いまする!!劉皇叔万歳!!」
突如、暫しの静寂を打ち破る声が満場に響いた。
趙雲だ。
傍らに静かに立っていたはずの趙雲が、力強く拱手すると共に叫んだ。
趙雲自身、自分の行動に一瞬遅れて驚いた。
意思ではない、身体が先に反応していたのである。
劉備の一番近くにいた趙雲が、一番感銘を受けたためであろう。
はたまた、今までの長年の苦労が思われて、感極まってしまったのかもしれない。
しかし趙雲が出過ぎた真似をと自分で気がついた時には、既にその場は耳が潰れそうな程の歓声に押し潰されていた。
「万歳!万歳!」
「兄者ー!万歳!万歳!溜まらねえよ俺は!」
いつのまにか張飛が劉備の側まで駆けてきていて、すかさず劉備を肩車した。
今や人々は自由に立って叫んだり、拍手をしたりしている。
最初は民や一般の兵から始まったらしいこの熱気は、やがて戸惑いながらも官や将達にも伝播していった。
「万歳!万歳!」
もはや民官将入り乱れての大騒ぎである。
一部の真面目な将や官は必死に羽目を外しすぎぬよう大声で警告しているが、当の劉備達が一番騒いでいるのだから、時間以外にこの騒ぎを収められるものはいまい。
本来ならば趙雲もそちらの真面目な側にいるのだが、今日ばかりは浮かれても良いかと自分に言い聞かせた。
やはり、熱気に当てられているのだ。
趙雲は、人々の隙間から城門の方を見た。
やはり、その人は立っていた。
いかな熱気の中であろうと、その人だけは静かに立っているのだろうという期待に違わぬ立ち姿だ。
「孔明殿!」
趙雲はなんとか人いきれの中を掻い潜り、喧騒を抜けた。
少し人の輪を抜けるだけで、ぐっと空気が落ち着いているように感じる。
「これは……趙将軍」
良く見ると、すぐ側には馬超と馬岱もいた。
一緒にいるだろうかと思った馬謖の姿は予想に反して、見えなかった。
「馬超殿達も」
慌てて拱手をして見せた。
馬超も馬岱も返すように拱手をした。
馬超は相変わらずの仏頂面だが、馬岱の方は面白げに笑っている。
「立派な口上で御座いましたね」
諸葛亮の細い声は、この喧騒の傍ではやや聞き取り辛かった。
「はい、感動しました。やはり殿は万民の上に立たれるべきお方だ……」
「殿もですが、貴方も」
「え?」
「ええ、素晴らしかったですよ、趙雲将軍」
馬岱が笑いかける。
「ああ、いや、つい……お恥ずかしい」
思い出すと、顔から火が出るような心地がする。
「貴殿方も中へ入れば宜しいのに」
照れ隠しに、趙雲は話題を代えようと試みた。
「いえ、私は。皆が騒いで警備を疎かにするわけには参りませんから」
諸葛亮が城門側に立っていたのは、警備の指示のためであったらしい。
こんな時も役目を忘れないのは、さすがというか、なんというか。
「我々は……まだ新参だ。共に騒ぐのは気が引ける」
そんな事誰も気にすまい、そう趙雲は返そうと思ったが、矜持の強い馬超自身が気がすまないのであろう。
「これから行われます宴では、是非とももっと打ち解けて下さいますよう」
諸葛亮が思いがけない事を言ったので、趙雲は意外に思った。
「殿が哀しまれます故、一緒に騒いで頂きたいのです」
「……善処しよう」
馬超が苦々しげに呟いた。
馬超はただ人前で騒いだりするのが苦手なだけかもしれないと改めて趙雲は思った。
それを裏付けるかのように、馬岱が隣で笑っている。
可愛い所もあるじゃないか。
「騒ぎが落ち着いたら、宴の場へ皆を誘導しましょう。まだ当分かかりそうですが」
「もう準備はしてあるのですか?」
「ええ、法正殿が任せろとおっしゃるので頼みました。幼常にはそれを手伝うよう言っております」
二人がいないと思ったら、なるほど既に準備に動いているらしい。
「法正殿が?」
あまり宴の準備などが得意な方には見えないのだが、と思って訊いた。
「ばか騒ぎになるのが目に見えているから、だそうです」
だから早めに退散したのでしょう、と言外に告げるように諸葛亮が小さく笑った。
どうやら他にも周りと騒ぐのが苦手な人間がいるようだ。
趙雲も、思わず笑い返した。
「誘導を、手伝っていただけますか?趙将軍」
「はい、勿論ですとも。では、それまではここに」
趙雲は、諸葛亮の隣に並んで喧騒を見守る。
諸葛亮の言う通り、騒ぎが収まるまでもう暫くかかりそうだ。
「……戦が、やっと終わりましたね子龍殿」
隣の諸葛亮が、小さく呟いた。
喧騒を縫って、なんとか趙雲の耳に届くほどの呟き。
恐らく馬超達にも届いていないだろう。
微かに一瞬、総身に緊張が走る。
「……ええ、そうですね」
やっと、長い戦が終わったのだ。
だから今だけは少し、まだこの歓声に酔っていたい。
それから、これからの現実に向き合おう。
二人はそれからは、黙って騒ぎを見守っていた。