一歩一歩 一歩一歩−3


「待ってくれたか、長文」

こちらへ歩み寄ってくる郭嘉は、見た目にはいつも変わらぬだらしない恰好のそれである。
ただ、高い確率で侍らしている女が、今日はいなかった。

「軍師殿……」

「良かった、ちょうど長文に訊きたい事があったんだ」

郭嘉は人懐っこい様子で、相好を崩す。

「訊きたい事?」

郭嘉に教える様な事など、自分にはあるだろうかと陳羣は首をかしげる。
郭嘉とは何一つ趣味が合わないであろうし、職種も違う。

「長文はさ、元々豫州で働いてたって話だったよな?」

「……はい、仰せの通り」

「って事はさ……。劉備の下で働いていたって事か?」

その昔、劉備は豫州を短い間だが、統治していた事があった。
何を隠そう、陳羣を初めて登用したのは他でもない、豫州時代の劉備だったのである。
その後劉備が呂布に領地を奪われ、そして曹操が呂布を滅ぼした時、初めて陳羣は曹操に出仕したのである。

「…………はい」

「やっぱり」

郭嘉は面白そうに、ニヤリと口角を上げた。

「それがなんだと言うのです。まさか私が、劉備殿と通じているとでもおっしゃるおつもりですか」

「いや、いや、まさか」

「では……」

「俺は劉備の話が聞きたい。それだけだ」

「……劉備殿の?」

郭嘉の答えは、陳羣にはいささか意外なものだった。

「何故、私に。劉備殿は貴方と共に従軍していた事もあったはず……」

劉備は先の呂布討伐戦に同行していた。
勿論郭嘉も軍師として従軍していたので、二人は戦場で一緒だった事になる。
劉備と郭嘉には、間違いなく面識がある。

「我が軍に来てからの劉備は駄目だ」

郭嘉は当然の事のように、ばっさりと切り捨てた。

「――劉備は天性の役者だ」

「えっ?」

「いや、実際それも良く分からんのだが。とにかく、徐州にいる時の劉備が知りたいんだ」

郭嘉の言いたい事は、良く分からない。

「あの……」

「なに?」

「敵を知り己を知れば百戦して危うからず。これから戦う相手の事を知ろうとするのは、良い心掛けだと思います」

「ふむ」

「しかし正直な話、劉備殿の守る下ヒなど我が軍の前では……」

「まあ、そうだろう。あっという間だな。じゃないと困る。袁紹に背を見せての戦になるのだから」

「では、何故」

「はっ……、分かってないな長文」

郭嘉は笑う。
嘲る口調であるのに、どこか慈しむような感じが、かえって陳羣の癪に触った。

「それはあまりにご無礼な言い様ではありませんか」

素直に不快さを表して返す。
陳羣は出来る限りの険しい顔をしたつもりだったが、やはり郭嘉は笑顔を崩さない。
いや、むしろ一層楽しげですらある。

「長文は俺の事嫌いだな?」

「えっ」

いきなりの話の転換ではあったが、あまりに図星だったので陳羣はギクリとした。
ハッと息をとめた陳羣を、郭嘉はじっと食い入る様に観察している。

「俺は政治は見ない。だから良く分からないのだが、政務官というのはそんなに素直で良いものなのかな」

「は、はて……」

「民を思っていれば良いのだからなぁ。俺達とは違う。人の裏の裏までかこうとする必要が無い」

褒められているのか、馬鹿にされているのか……陳羣は妙な気分になった。
煙に撒かれようとしている、という印象すらあった。

「――劉備は危険だ」

「え?」

「俺はあいつはいつまでも人の下にいる男では無いと思う」

「劉備殿が……」

分からぬでもない、と陳羣は思った。
記憶の中の劉備は、いつも人の真ん中にいる、そんな男だった。
為政者として、指揮官として、優れているのは明らかに曹操であろう。
両者のもとで働いた経験のある陳羣は、実によく分かる。
それでも……、劉備には理屈ではない何かがある。
そんな気もする。



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